僕は渡し舟に乗る度に「一銭蒸汽」の浪の来ることを、――このうねうねした浪の為に舟の揺《ゆ》れることを恐れたものである。しかし今日《こんにち》の大川の上に大小の浪を残すものは一々数へるのに耐へないであらう。
僕は船端《ふなばた》に立つたまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重《ひろしげ》も描《か》いてゐた河童《かつぱ》のことを思ひ出した。河童は明治時代には、――少くとも「御維新《ごゐしん》」前後には大根河岸《だいこんがし》の川にさへ出没してゐた。僕の母の話に依れば、観世新路《くわんぜじんみち》に住んでゐた或男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗つてゐるうちに大根河岸《だいこんがし》の川の河童に腋《わき》の下をくすぐられたと言ふことである。(観世新路に植木屋の住んでゐたことさへ僕等にはもう不思議である。)まして大川にゐた河童の数《かず》は決して少くはなかつたであらう。いや、必《かならず》しも河童ばかりではない。僕の父の友人の一人《ひとり》は夜網《よあみ》を打ちに出てゐたところ、何か舳《とも》へ上《あが》つたのを見ると、甲羅《かふら》だけでも盥《たらひ》ほどあるすつぽんだつたなどと話してゐた。僕は勿論かういふ話を尽《ことごと》く事実とは思つてゐない。けれども明治時代――或は明治時代以前の人々はこれ等の怪物を目撃《もくげき》する程この町中《まちなか》を流れる川に詩的恐怖を持つてゐたのであらう。
「今ではもう河童《かつぱ》もゐないでせう。」
「かう泥だの油だの一面に流れてゐるのではね。――しかしこの橋の下あたりには年を取つた河童の夫婦が二匹|未《いま》だに住んでゐるかも知れません。」
川蒸汽は僕等の話の中《うち》に廐橋《うまやばし》の下へはひつて行つた。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに蒼《あを》んでゐた。僕は昔は渡し舟へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭《いそくさ》い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》のしたことを思ひ出した。しかし今日《こんにち》の大川の水は何《なん》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]も持つてゐない。若し又持つてゐるとすれば、唯泥臭い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]だけであらう。……
「あの橋は今度出来る駒形橋《こまかたばし》ですね?」
O君は生憎《あいにく》僕の問に答へることは出来なかつた。駒形《こまかた》は僕の小学時代には大抵《たいてい》「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。「君は今|駒形《こまかた》あたりほとゝぎす」を作つた遊女も或は「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の声に響かせたかつたかも知れない。支那人は「文章は千古の事」と言つた。が、文章もおのづから※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]を失つてしまふことは大川の水に変らないのである。
柳島
僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋《あづまばし》の袂《たもと》へ出、そこへ来合せた円タクに乗つて柳島《やなぎしま》へ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?――若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小学時代に業平橋《なりひらばし》かどこかにあつた或|可也《かなり》大きい寺へ葬式に行つた時だけである。僕はその葬式の帰りに確か父に「御維新《ごゐしん》」前《ぜん》の本所《ほんじよ》の話をして貰つた。父は往来《わうらい》の左右を見ながら、「昔はここいらは原ばかりだつた」とか「何《なん》とか様《さま》の裏の田には鶴が下りたものだ」とか話してゐた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首縊《くびくく》りとかの死骸を早桶《はやをけ》に入れ、その又早桶を葭簀《よしず》に包んだ上、白張《しらは》りの提灯《ちやうちん》を一本立てて原の中に据《す》ゑて置くと云ふ話だつた。僕は草原《くさはら》の中に立つた白張の提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかも彼是《かれこれ》真夜中《まよなか》になると、その早桶のおのづからごろりと転げるといふに至つては、――明治時代の本所はたとひ草原には乏しかつたにもせよ、恐らくまだこのあたりは多少|所謂《いはゆる》「御朱引《ごしゆび》き外《そと》」の面《おも》かげをとどめてゐたのであらう。しかし今はどこを見ても、唯電柱やバラツクの押し合ひへし合ひしてゐるだけである。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往来《わうらい》を見ながら、金銭を武器にする修羅界《しゆらかい》の空気を憂鬱に感じるばかりだつた。
僕等は「橋本《はしもと》」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り
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