しながら、「※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]湘日夜東《げんしやうにちやひがし》に流れて去る」といふ支那人の詩を思ひ出した。かういふ大都会の中の川は※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]湘《げんしやう》のやうに悠々と時代を超越してゐることは出来ない。現世《げんせい》は実に大川《おほかは》さへ刻々に工業化してゐるのである。
しかしこの浮き桟橋の上に川蒸汽を待つてゐる人々は大抵《たいてい》大川よりも保守的である。僕は巻煙草をふかしながら、唐桟柄《たうざんがら》の着物を着た男や銀杏《いてふ》返しに結《ゆ》つた女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。同時に又明治時代にめぐり合つた或懐しみに近いものを感じない訣《わけ》には行かなかつた。そこへ下流から漕《こ》いで来たのは久振《ひさしぶ》りに見る五大力《ごだいりき》である。艫《へさき》の高い五大力の上には鉢巻をした船頭《せんどう》が一人《ひとり》一丈余りの櫓《ろ》を押してゐた。それからお上《かみ》さんらしい女が一人|御亭主《ごていしゆ》に負けずに竿を差してゐた。かういふ水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩《ぢよじやうし》めいた心もちを起させるものは少ないかも知れない。僕はこの五大力を見送りながら、――その又五大力の上にゐる四五歳の男の子を見送りながら、幾分か彼等の幸福を羨《うらや》みたい気さへ起してゐた。
両国橋《りやうごくばし》をくぐつて来た川蒸汽はやつと浮き桟橋へ横着けになつた。「隅田丸《すみだまる》三十号」(?)――僕は或はこの小蒸汽に何度も前に乗つてゐるのであらう。兎《と》に角《かく》これも明治時代に変つてゐないことは確かである。川蒸汽の中は満員だつた上、立つてゐる客も少くない。僕等はやむを得ず舟《ふね》ばたに立ち、薄日《うすび》の光に照らされた両岸の景色を見て行くことにした。尤《もつと》も船《ふな》ばたに立つてゐたのは僕等二人に限つた訣《わけ》ではない。僕等の前には夏外套《なつぐわいたう》を着た、顋髯《あごひげ》の長い老人さへやはり船ばたに立つてゐたのである。
川蒸汽は静かに動き出した。すると大勢《おほぜい》の客の中に忽ち「毎度御やかましうございますが」と甲高《かんだか》い声を出しはじめたのは絵葉書や雑誌を売る商人である。これも亦《また》昔に変つてゐない。若し少しでも変つてゐるとすれば、「何ごとも活動ばやりの世の中でございますから」などと云ふ言葉を挾《はさ》んでゐることであらう。僕はまだ小学時代からかう云ふ商人の売つてゐるものを一度も買つた覚えはない。が、天窓《てんまど》越しに彼の姿を見おろし、ふと僕の小学時代に伯母《をば》と一しよに川蒸汽へ乗つた時のことを思ひ出した。
乗り継ぎ「一銭蒸汽」
僕等はその時にどこへ行つたのか、兎《と》に角《かく》伯母《をば》だけは長命寺《ちやうめいじ》の桜餅を一籠《ひとかご》膝《ひざ》にしてゐた。すると男女の客が二人《ふたり》、僕等の顔を尻目《しりめ》にかけながら、「何か※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]ひますね」「うん、糞臭《くそくさ》いな」などと話しはじめた。長命寺の桜餅を糞臭いとは、――僕は未《いま》だに生意気《なまいき》にもこの二人を田舎者《ゐなかもの》めと軽蔑したことを覚えてゐる。長命寺にも震災以来一度も足を入れたことはない。それから長命寺の桜餅は、――勿論今でも昔のやうに評判の善《い》いことは確かである。しかし※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]《あん》や皮にあつた野趣《やしゆ》だけはいつか失はれてしまつた。……
川蒸汽は蔵前橋《くらまへばし》の下をくぐり、廐橋《うまやばし》へ真直《まつすぐ》に進んで行つた。そこへ向うから僕等の乗つたのとあまり変らない川蒸汽が一艘|矢張《やは》り浪《なみ》を蹴つて近づき出した。が、七八間隔ててすれ違つたのを見ると、この川蒸汽の後部には甲板《かんぱん》の上に天幕《テント》を張り、ちやんと大川《おほかは》の両岸の景色を見渡せる設備も整つてゐた。かういふ古風な川蒸汽も亦《また》目まぐるしい時代の影響を蒙《かうむ》らない訣《わけ》には行《ゆ》かないらしい。その後《あと》へ向うから走つて来たのはお客や芸者を乗せたモオタアボオトである。屋根船や船宿《ふなやど》を知つてゐる老人達は定めしこのモオタアボオトに苦々《にがにが》しい顔をすることであらう。僕は江戸趣味に随喜《ずゐき》する者ではない。従つて又モオタアボオトを無風流《ぶふうりう》と思ふ者ではない。しかし僕の小学時代に大川に浪を立てるものは「一銭蒸汽」のあるだけだつた。或はその外《ほか》に利根川《とねがは》通ひの外輪船《ぐわいりんせん》のあるだけだつた。
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