が、兎《と》に角《かく》新芽を吹いた昔の並《な》み木の一本である。僕の覚えてゐる柳の木は一本も今では残つてゐない。けれどもこの木だけは何かの拍子《ひやうし》に火事にも焼かれずに立つてゐるのであらう。僕は殆《ほとん》どこの木の幹に手を触《ふ》れて見たい誘惑を感じた。のみならずその木の根元には子供を連れたお婆《ばあ》さんが二人|曇天《どんてん》の大川を眺めながら、花見か何かにでも来てゐるやうに稲荷鮨《いなりずし》を食べて話し合つてゐた。
本所会館の隣にあるのは建築中の同愛《どうあい》病院である。高い鉄の櫓《やぐら》だの、何階建かのコンクリイトの壁だの、殊《こと》に砂利《じやり》を運ぶ人夫《にんぷ》だのは確かに僕を威圧するものだつた。同時に又工業地になつた「本所の玄関」といふ感じを打ち込まなければ措《お》かないものだつた。僕は半裸体の工夫《こうふ》が一人《ひとり》、汗に体を輝かせながら、シヤベルを動かしてゐるのを見、本所全体もこの工夫のやうに烈しい生活をしてゐることを感じた。この界隈《かいわい》の家々の上に五月|幟《のぼり》の翻《ひるがへ》つてゐたのは僕の小学時代の話である。今では、――誰も五月|幟《のぼり》よりは新しい日本の年中行事になつたメイ・デイを思ひ出すのに違ひない。
僕は昔この辺にあつた「御蔵橋《おくらばし》」と言ふ橋を渡り、度々《たびたび》友綱《ともづな》の家《うち》の側にあつた或友達の家《うち》へ遊びに行つた。彼も亦《また》海軍の将校になつた後《のち》、二三年|前《ぜん》に故人になつてゐる。しかし僕の思ひ出したのは必《かならず》しも彼のことばかりではない。彼の住んでゐた家のあたり、――瓦屋根の間《あひだ》に樹木《じゆもく》の見える横町《よこちやう》のことも思ひ出したのである。そこは僕の住んでゐた元町《もとまち》通りに比《くら》べると、はるかに人通りも少なければ「しもた家《や》」も殆《ほとん》ど門並《かどな》みだつた。「椎《しひ》の木《き》松浦《まつうら》」のあつた昔は暫《しばら》く問はず、「江戸の横網《よこあみ》鶯の鳴く」と北原白秋《きたはらはくしう》氏の歌つた本所《ほんじよ》さへ今ではもう「歴史的|大川端《おほかははた》」に変つてしまつたと言ふ外はない。如何《いか》に万法《ばんぱふ》は流転《るてん》するとはいへ、かういふ変化の絶え間《ま》ない都会は世界中にも珍らしいであらう。
僕等はいつか工事場らしい板囲《いたかこ》ひの前に通りかかつた。そこにも労働者が二三人、せつせと槌《つち》を動かしながら、大きい花崗石《くわかうせき》を削《けづ》つてゐた。のみならず工事中の鉄橋さへ泥濁りに濁つた大川の上へ長々と橋梁《はしげた》を横たへてゐた。僕はこの橋の名前は勿論、この橋の出来る話も聞いたことはなかつた。震災は僕等の後《うしろ》にある「富士見《ふじみ》の渡し」を滅してしまつた。が、その代りに僕等の前に新しい鉄橋を造らうとしてゐる。……
「これは何《なん》といふ橋ですか?」
麦藁帽を冠《かぶ》つた労働者の一人《ひとり》は矢張《やは》り槌を動かしたまま、ちよつと僕の顔を見上げ、存外《ぞんぐわい》親切に返事をした。
「これですか? これは蔵前橋《くらまえばし》です。」
「一銭蒸汽」
僕等はそこから引き返して川蒸汽《かはじようき》の客になる為に横網《よこあみ》の浮き桟橋《さんばし》へおりて行つた。昔はこの川蒸汽も一銭蒸汽と呼んだものである。今はもう賃銭も一銭ではない。しかし五銭出しさへすれば、何区でも勝手に行《ゆ》かれるのである。けれども屋根のある浮き桟橋は――震災は勿論この浮き桟橋も炎《ほのほ》にして空へ立ち昇《のぼ》らせたのであらう。が、一見した所は明治時代に変つてゐない。僕等はベンチに腰をおろし、一本の巻煙草に火をつけながら、川蒸汽の来るのを待つことにした。「石垣にはもう苔《こけ》が生えてゐますね。もつとも震災以来四五年になるが、……」
僕はふとこんなことを言ひ、O君の為に笑はれたりした。
「苔の生えるのは当り前であります[#「であります」に傍点]。」
大川《おほかは》は前にも書いたやうに一面に泥濁《どろにご》りに濁つてゐる。それから大きい浚渫船《しゆんせつせん》が一艘|起重機《きぢゆうき》を擡《もた》げた向う河岸《がし》も勿論「首尾《しゆび》の松」や土蔵《どざう》の多い昔の「一番堀《いちばんぼり》」や「二番堀《にばんぼり》」ではない。最後に川の上を通る船も今では小蒸汽《こじようき》や達磨船《だるまぶね》である。五大力《ごだいりき》、高瀬船《たかせぶね》、伝馬《てんま》、荷足《にたり》、田船《たぶね》などといふ大小の和船も何時《いつ》の間《ま》にか流転《るてん》の力に押し流されたのであらう。僕はO君と話
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