《やすだけ》の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「お条《でう》さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処《どこ》へも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛を生《は》やす為めに蝙蝠《かうもり》の血などを頭へ塗《ぬ》つてゐた。)最後に僕の通《かよ》つてゐた江東《かうとう》小学校の校長さんは両眼とも明《めい》を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所《ほんじよ》に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張《やは》りこの界隈《かいわい》に火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業《ひごふ》の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。
「しかし両国橋《りやうごくばし》を渡つた人は大抵《たいてい》助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町《もとまち》通りには高圧線の落ちたのに触《ふ》れて死んだ人もあつたと言ふことですよ。」
「兎《と》に角《かく》東京中でも被服廠《ひふくしやう》程|大勢《おおぜい》焼け死んだところはなかつたのでせう。」
 かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉《たけぐら》」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大体「御維新《ごゐしん》」前《ぜん》と変らなかつたものの、もう総武《そうぶ》鉄道会社の敷地の中《うち》に加へられてゐた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だつたから、妄《みだ》りに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雑木林《ざふきばやし》や竹藪のある、町中《まちなか》には珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかかつた掘割りさへ大川《おほかは》に通じてゐた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝板《どぶいた》の上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記《れふじんにつき》」を拾ひ読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の陰《かげ》や大きい昼の月のかかつた雑木林の梢《こずゑ》を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には厳《いかめ》しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日《こんにち》を思へば、――「卻《かへ》つて并州《へいしう》を望めば是《これ》故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
 総武《そうぶ》鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜《よる》は「本所《ほんじよ》の七《なな》不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉《かたは》の芦《あし》」は何処《どこ》かこのあたりにあるものと信じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。現に夜学に通《かよ》ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃《ばかばや》しを聞き、てつきりあれは「狸囃《たぬきばや》し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕|一人《ひとり》の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通《かよ》つてゐた線路工夫の一人《ひとり》は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。

     「大川端」

 本所《ほんじよ》会館は震災|前《ぜん》の安田家《やすだけ》の跡に建つたのであらう。安田家は確か花崗石《くわかうせき》を使つたルネサンス式の建築だつた。僕は椎《しひ》の木などの茂つた中にこの建築の立つてゐたのに明治時代そのものを感じてゐる。が、セセツシヨン式の本所会館は「牛乳デイ」とかいふものの為に植込みのある玄関の前に大きいポスタアを掲《かか》げたり、宣伝用の自動車を並べたりしてゐた。僕の水泳を習ひに行つた「日本游泳協会」は丁度《ちやうど》この河岸《かし》にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代将軍|家光《いへみつ》は水泳を習ひに日本橋《にほんばし》へ出かけたと言ふことを発見し、滑稽に近い今昔《こんじやく》の感を催さない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。しかし僕等の大川《おほかは》へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世《こうせい》には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。
 僕は又この河岸《かし》にも昔に変らないものを発見した。それは――生憎《あいにく》何《なん》の木かはちよつと僕には見当《けんたう》もつかない。
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