。駒形《こまかた》は僕の小学時代には大抵《たいてい》「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。「君は今|駒形《こまかた》あたりほとゝぎす」を作つた遊女も或は「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の声に響かせたかつたかも知れない。支那人は「文章は千古の事」と言つた。が、文章もおのづから※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]を失つてしまふことは大川の水に変らないのである。

     柳島

 僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋《あづまばし》の袂《たもと》へ出、そこへ来合せた円タクに乗つて柳島《やなぎしま》へ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?――若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小学時代に業平橋《なりひらばし》かどこかにあつた或|可也《かなり》大きい寺へ葬式に行つた時だけである。僕はその葬式の帰りに確か父に「御維新《ごゐしん》」前《ぜん》の本所《ほんじよ》の話をして貰つた。父は往来《わうらい》の左右を見ながら、「昔はここいらは原ばかりだつた」とか「何《なん》とか様《さま》の裏の田には鶴が下りたものだ」とか話してゐた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首縊《くびくく》りとかの死骸を早桶《はやをけ》に入れ、その又早桶を葭簀《よしず》に包んだ上、白張《しらは》りの提灯《ちやうちん》を一本立てて原の中に据《す》ゑて置くと云ふ話だつた。僕は草原《くさはら》の中に立つた白張の提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかも彼是《かれこれ》真夜中《まよなか》になると、その早桶のおのづからごろりと転げるといふに至つては、――明治時代の本所はたとひ草原には乏しかつたにもせよ、恐らくまだこのあたりは多少|所謂《いはゆる》「御朱引《ごしゆび》き外《そと》」の面《おも》かげをとどめてゐたのであらう。しかし今はどこを見ても、唯電柱やバラツクの押し合ひへし合ひしてゐるだけである。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往来《わうらい》を見ながら、金銭を武器にする修羅界《しゆらかい》の空気を憂鬱に感じるばかりだつた。
 僕等は「橋本《はしもと》」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り
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