しい。しかもこの頃|蓄膿症《ちくのうしょう》のために鼻のつまった甥《おい》の声である。僕はしぶしぶ立ち上りながら、老人の前へ手を伸ばした。
「じゃきょうは失礼します。」
「そうですか。じゃまた話しに来て下さい。わたしはこう云うものですから。」
 老人は僕と握手した後《のち》、悠然と一枚の名刺を出した。名刺のまん中には鮮《あざや》かに Lemuel Gulliver と印刷をしてある! 僕は思わず口をあいたまま、茫然と老人の顔を見つめた。麻色の髪の毛に囲まれた、目鼻だちの正しい老人の顔は永遠の冷笑を浮かべている、――と思ったのはほんの一瞬間に過ぎない。その顔はいつか悪戯《いたずら》らしい十五歳の甥の顔に変っている。
「原稿ですってさ。お起きなさいよ。原稿をとりに来たのですってさ。」
 甥は僕を揺《ゆ》すぶった。僕は置火燵《おきごたつ》に当ったまま、三十分ばかり昼寝をしたらしい。置火燵の上に載っているのは読みかけた Gulliver's Travels である。
「原稿をとりに来た? どこの原稿を?」
「随筆のをですってさ。」
「随筆の?」
 僕は我《われ》知《し》らず独言《ひとりごと》を
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