しい。しかもこの頃|蓄膿症《ちくのうしょう》のために鼻のつまった甥《おい》の声である。僕はしぶしぶ立ち上りながら、老人の前へ手を伸ばした。
「じゃきょうは失礼します。」
「そうですか。じゃまた話しに来て下さい。わたしはこう云うものですから。」
 老人は僕と握手した後《のち》、悠然と一枚の名刺を出した。名刺のまん中には鮮《あざや》かに Lemuel Gulliver と印刷をしてある! 僕は思わず口をあいたまま、茫然と老人の顔を見つめた。麻色の髪の毛に囲まれた、目鼻だちの正しい老人の顔は永遠の冷笑を浮かべている、――と思ったのはほんの一瞬間に過ぎない。その顔はいつか悪戯《いたずら》らしい十五歳の甥の顔に変っている。
「原稿ですってさ。お起きなさいよ。原稿をとりに来たのですってさ。」
 甥は僕を揺《ゆ》すぶった。僕は置火燵《おきごたつ》に当ったまま、三十分ばかり昼寝をしたらしい。置火燵の上に載っているのは読みかけた Gulliver's Travels である。
「原稿をとりに来た? どこの原稿を?」
「随筆のをですってさ。」
「随筆の?」
 僕は我《われ》知《し》らず独言《ひとりごと》を云った。
「サッサンラップ島の野菜市《やさいいち》には『はこべら』の類《たぐい》も売れると見える。」
[#地から1字上げ](大正十二年十二月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月10日公開
2004年3月7日修正
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