でござらう。二三度煙をくぐつたと見る間に、背《そびら》をめぐらして、一散に逃げ出いた。して翁と娘とが佇《たたず》んだ前へ来て、「これも『でうす』万事にかなはせたまふ御計らひの一つぢや。詮ない事とあきらめられい」と申す。その時翁の傍から、誰とも知らず、高らかに「御主《おんあるじ》、助け給へ」と叫ぶものがござつた。声ざまに聞き覚えもござれば、「しめおん」が頭《かうべ》をめぐらして、その声の主をきつと見れば、いかな事、これは紛《まが》ひもない「ろおれんぞ」ぢや。清らかに痩せ細つた顔は、火の光に赤うかがやいて、風に乱れる黒髪も、肩に余るげに思はれたが、哀れにも美しい眉目《みめ》のかたちは、一目見てそれと知られた。その「ろおれんぞ」が、乞食の姿のまま、群《むらが》る人々の前に立つて、目もはなたず燃えさかる家を眺めて居る。と思うたのは、まことに瞬《またた》く間もない程ぢや。一しきり焔を煽《あふ》つて、恐しい風が吹き渡つたと見れば、「ろおれんぞ」の姿はまつしぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁《うつばり》の中にはいつて居つた。「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空高く「くるす」(十字)を描きながら
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