かったのです。
 わたしは浄厳寺《じょうごんじ》の裏へ来ると、一散《いっさん》に甚内へ追いつきました。ここはずっと町家《ちょうか》のない土塀《どべい》続きになっていますから、たとい昼でも人目を避けるには、一番|御誂《おあつら》えの場所なのですが、甚内はわたしを見ても、格別驚いた気色《けしき》は見せず、静かにそこへ足を止めました。しかも杖《つえ》をついたなり、わたしの言葉を待つように、一言《ひとこと》も口を利《き》かないのです。わたしは実際恐る恐る、甚内の前に手をつきました。しかしその落着いた顔を見ると、思うように声さえ出て来ません。
「どうか失礼は御免下さい。わたしは北条屋弥三右衛門《ほうじょうややそうえもん》の倅《せがれ》弥三郎《やさぶろう》と申すものです。――」
 わたしは顔を火照《ほて》らせながら、やっとこう口を切りました。
「実は少し御願いがあって、あなたの跡を慕《した》って来たのですが、……」
 甚内はただ頷《うなず》きました。それだけでも気の小さいわたしには、どのくらい難有《ありがた》い気がしたでしょう。わたしは勇気も出て来ましたから、やはり雪の中に手をついたなり、父の勘当
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