いないのです。いつぞや聚楽《じゅらく》の御殿《ごてん》へ召された呂宋助左衛門《るそんすけざえもん》の手代《てだい》の一人も、確か甚内と名乗っていました。また利休居士《りきゅうこじ》の珍重《ちんちょう》していた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師《れんがし》の本名《ほんみょう》は、甚内《じんない》とか云ったと聞いています。そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記《あまかわにっき》と云う本を書いた、大村《おおむら》あたりの通辞《つうじ》の名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか? そのほか三条河原《さんじょうがわら》の喧嘩に、甲比丹《カピタン》「まるどなど」を救った虚無僧《こむそう》、堺《さかい》の妙国寺《みょうこくじ》門前に、南蛮《なんばん》の薬を売っていた商人、……そう云うものも名前を明かせば、何がし甚内だったのに違いありません。いや、それよりも大事なのは、去年この「さん・ふらんしすこ」の御寺《みてら》へ、おん母「まりや」の爪を収めた、黄金《おうごん》の舎利塔《しゃりとう》を献じているのも、やはり甚内と云う信徒だった筈です。
しかし今夜は残念ながら、一々そう云う行状を話して
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