に切れの長い目尻、――これは確かに見れば見るほど、いつか一度は会っている顔です。
「おん主《あるじ》、『えす・きりすと』様。何とぞ我々夫婦の心に、あなた様の御力を御恵み下さい。……」
 弥三右衛門は眼を閉じたまま、御祈りの言葉を呟《つぶや》き始めました。老女もやはり夫のように天帝の加護を乞うているようです。わたしはその間《あいだ》瞬きもせず、弥三右衛門の顔を見続けました。するとまた凩《こがらし》の渡った時、わたしの心に閃《ひらめ》いたのは、二十年以前の記憶です。わたしはこの記憶の中に、はっきり弥三右衛門の姿を捉《とら》えました。
 その二十年以前の記憶と云うのは、――いや、それは話すには及びますまい。ただ手短に事実だけ云えば、わたしは阿媽港《あまかわ》に渡っていた時、ある日本《にほん》の船頭に危《あやう》い命を助けて貰いました。その時は互に名乗りもせず、それなり別れてしまいましたが、今わたしの見た弥三右衛門は、当年の船頭に違いないのです。わたしは奇遇《きぐう》に驚きながら、やはりこの老人の顔を見守っていました。そう云えば威《い》かつい肩のあたりや、指節《ゆびふし》の太い手の恰好《かっこう》には、未《いまだ》に珊瑚礁《さんごしょう》の潮《しお》けむりや、白檀山《びゃくだんやま》の匂いがしみているようです。
 弥三右衛門は長い御祈りを終ると、静かに老女へこう云いました。
「跡はただ何事も、天主《てんしゅ》の御意《ぎょい》次第と思うたが好《よ》い。――では釜のたぎっているのを幸い、茶でも一つ立てて貰おうか?」
 しかし老女は今更のように、こみ上げる涙を堪《こら》えるように、消え入りそうな返事をしました。
「はい。――それでもまだ悔《く》やしいのは、――」
「さあ、それが愚痴《ぐち》と云うものじゃ。北条丸《ほうじょうまる》の沈んだのも、抛《な》げ銀《ぎん》の皆倒れたのも、――」
「いえ、そんな事ではございません。せめては倅《せがれ》の弥三郎《やさぶろう》でも、いてくれればと思うのでございますが、……」
 わたしはこの話を聞いている内に、もう一度微笑が浮んで来ました。が、今度は北条屋《ほうじょうや》の不運に、愉快を感じたのではありません。「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の阿媽港甚内《あまかわじんない》にも、立派《りっぱ》に恩返しが出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、わたしのほかにはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。何一つ悪事を働かない代りに、どのくらい善行を施《ほどこ》した時には、嬉しい心もちになるものか、――そんな事も碌《ろく》には知らないのですから。
「何、ああ云う人でなしは、居らぬだけにまだしも仕合せなぐらいじゃ。……」
 弥三右衛門は苦々《にがにが》しそうに、行燈《あんどん》へ眼を外《そ》らせました。
「あいつが使いおった金でもあれば、今度も急場だけは凌《しの》げたかも知れぬ。それを思えば勘当《かんどう》したのは、………」
 弥三右衛門はこう云ったなり、驚いたようにわたしを眺めました。これは驚いたのも無理はありません。わたしはその時声もかけずに、堺《さかい》の襖《ふすま》を明けたのですから。――しかもわたしの身なりと云えば、雲水《うんすい》に姿をやつした上、網代《あじろ》の笠を脱いだ代りに、南蛮頭巾《なんばんずきん》をかぶっていたのですから。
「誰だ、おぬしは?」
 弥三右衛門は年はとっていても、咄嗟《とっさ》に膝を起しました。
「いや、御驚きになるには及びません。わたしは阿媽港甚内と云うものです。――まあ、御静かになすって下さい。阿媽港甚内は盗人《ぬすびと》ですが、今夜突然参上したのは、少しほかにも訣《わけ》があるのです。――」
 わたしは頭巾《ずきん》を脱ぎながら、弥三右衛門の前に坐りました。
 その後《のち》の事は話さずとも、あなたには推察出来るでしょう。わたしは北条屋《ほうじょうや》の危急《ききゅう》を救うために、三日と云う日限《にちげん》を一日も違えず、六千貫の金《かね》を調達する、恩返しの約束を結んだのです。――おや、誰か戸の外に、足音が聞えるではありませんか? では今夜は御免下さい。いずれ明日《あす》か明後日《あさって》の夜《よる》、もう一度ここへ忍《しの》んで来ます。あの大十字架《おおくるす》の星の光は阿媽港《あまかわ》の空には輝いていても、日本《にっぽん》の空には見られません。わたしもちょうどああ云うように日本では姿を晦《くら》ませていないと、今夜「みさ」を願いに来た、「ぽうろ」の魂のためにもすまないのです。
 何、わたしの逃げ途《みち》ですか? そんな事は心配に及びません。この高い天窓《てんまど》からでも、あの大きい暖炉《だんろ》から
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