す。同じ渡海《とかい》を渡世にしていても、北条屋は到底《とうてい》角倉《かどくら》などと肩を並べる事は出来ますまい。しかしとにかく沙室《しゃむろ》や呂宋《るそん》へ、船の一二|艘《そう》も出しているのですから、一かどの分限者《ぶげんしゃ》には違いありません。わたしは何もこの家《うち》を目当に、うろついていたのではないのですが、ちょうどそこへ来合わせたのを幸い、一稼《ひとかせ》ぎする気を起しました。その上前にも云った通り、夜《よ》は深いし風も出ている、――わたしの商売にとりかかるのには、万事持って来いの寸法《すんぽう》です。わたしは路ばたの天水桶《てんすいおけ》の後《うしろ》に、網代《あじろ》の笠や杖を隠した上、たちまち高塀を乗り越えました。
世間の噂《うわさ》を聞いて御覧なさい。阿媽港甚内《あまかわじんない》は、忍術を使う、――誰でも皆そう云っています。しかしあなたは俗人のように、そんな事は本当と思いますまい。わたしは忍術も使わなければ、悪魔も味方にはしていないのです。ただ阿媽港《あまかわ》にいた時分、葡萄牙《ポルトガル》の船の医者に、究理の学問を教わりました。それを実地に役立てさえすれば、大きい錠前を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じ切ったり、重い閂《かんぬき》を外したりするのは、格別むずかしい事ではありません。(微笑)今までにない盗みの仕方、――それも日本《にっぽん》と云う未開の土地は、十字架や鉄砲の渡来と同様、やはり西洋に教わったのです。
わたしは一ときとたたない内に、北条屋の家《うち》の中にはいっていました。が、暗い廊下《ろうか》をつき当ると、驚いた事にはこの夜更《よふ》けにも、まだ火影《ほかげ》のさしているばかりか、話し声のする小座敷があります。それがあたりの容子《ようす》では、どうしても茶室に違いありません。「凩《こがらし》の茶か」――わたしはそう苦笑《くしょう》しながら、そっとそこへ忍び寄りました。実際その時は人声のするのに、仕事の邪魔《じゃま》を思うよりも、数寄《すき》を凝らした囲いの中に、この家《や》の主人や客に来た仲間が、どんな風流を楽しんでいるか?――そんな事に心が惹《ひ》かれたのです。
襖《ふすま》の外に身を寄せるが早いか、わたしの耳には思った通り、釜《かま》のたぎりがはいりました。が、その音がすると同時に、意外にも誰か話をしては、泣いている声が聞えるのです。誰か、――と云うよりもそれは二度と聞かずに、女だと云う事さえわかりました。こう云う大家《たいけ》の茶座敷に、真夜中女の泣いていると云うのは、どうせただ事ではありません。わたしは息をひそめたまま、幸い明いていた襖《ふすま》の隙《すき》から、茶室の中を覗《のぞ》きこみました。
行燈《あんどん》の光に照された、古色紙《こしきし》らしい床《とこ》の懸け物、懸け花入《はないれ》の霜菊《しもぎく》の花。――囲《かこ》いの中には御約束通り、物寂びた趣が漂っていました。その床の前、――ちょうどわたしの真正面《ましょうめん》に坐った老人は、主人の弥三右衛門《やそうえもん》でしょう、何か細《こま》かい唐草《からくさ》の羽織に、じっと両腕を組んだまま、ほとんどよそ眼に見たのでは、釜の煮《に》え音でも聞いているようです。弥三右衛門の下座《しもざ》には、品《ひん》の好《い》い笄髷《こうがいまげ》の老女が一人、これは横顔を見せたまま、時々涙を拭っていました。
「いくら不自由がないようでも、やはり苦労だけはあると見える。」――わたしはそう思いながら、自然と微笑を洩《も》らしたものです。微笑を、――こう云ってもそれは北条屋《ほうじょうや》夫婦に、悪意があったのではありません。わたしのように四十年間、悪名《あくみょう》ばかり負っているものには、他人の、――殊に幸福らしい他人の不幸は、自然と微笑を浮ばせるのです。(残酷な表情)その時もわたしは夫婦の歎きが、歌舞伎《かぶき》を見るように愉快だったのです。(皮肉な微笑)しかしこれはわたし一人に、限った事ではありますまい。誰にも好まれる草紙《そうし》と云えば、悲しい話にきまっているようです。
弥三右衛門はしばらくの後《のち》、吐息《といき》をするようにこう云いました。
「もうこの羽目《はめ》になった上は、泣いても喚《わめ》いても取返しはつかない。わたしは明日《あす》にも店のものに、暇《ひま》をやる事に決心をした。」
その時また烈しい風が、どっと茶室を揺《ゆ》すぶりました。それに声が紛《まぎ》れたのでしょう。弥三右衛門の内儀《ないぎ》の言葉は、何と云ったのだかわかりません。が、主人は頷《うなず》きながら、両手を膝の上に組み合せると、網代《あじろ》の天井へ眼を上げました。太い眉《まゆ》、尖った頬骨《ほおぼね》、殊
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