ければまた心配するし、――」
 男はふと口を噤《つぐ》んだ。敏子は足もとに眼をやったなり、影になった頬《ほお》の上に、いつか涙を光らせている。しかし男は当惑そうに、短い口髭《くちひげ》を引張ったきり、何ともその事は云わなかった。
「あなた。」
 息苦しい沈黙の続いた後《のち》、こう云う声が聞えた時も、敏子はまだ夫の前に、色の悪い顔を背《そむ》けていた。
「何だい?」
「私は、――私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなくなったのが、――」
 敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。
「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」
 敏子の声には今までにない、荒々《あらあら》しい力がこもっている。男はワイシャツの肩や胴衣《チョッキ》に今は一ぱいにさし始めた、眩《まばゆ》い日の光を鍍金《めっき》しながら、何ともその問に答えなかった。何か人力に及ばないものが、厳然と前へでも塞《ふさ》がったように。
[#地から1字上げ](大正十年八月)



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月7日修正
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