に流れている。それがやや俯向《うつむ》きになった、血色の好《い》い頬に反射している。心もち厚い唇の上の、かすかな生《う》ぶ毛《げ》にも反射している。
 午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。商売に来たのも、見物に来たのも、泊《とま》り客は大抵《たいてい》外出してしまう。下宿している勤《つと》め人《にん》たちも勿論午後までは帰って来ない。その跡にはただ長い廊下に、時々|上草履《うわぞうり》を響かせる、女中の足音だけが残っている。
 この時もそれが遠くから、だんだんこちらへ近づいて来ると、出窓に面した廊下には、四十|格好《がっこう》の女中が一人、紅茶の道具を運びながら、影画《かげえ》のように通りかかった。女中は何とも云われなかったら、女のいる事も気がつかずに、そのまま通りすぎてしまったかも知れない。が、女は女中の姿を見ると、心安そうに声をかけた。
「お清《きよ》さん。」
 女中はちょいと会釈《えしゃく》してから、出窓の方へ歩み寄った。
「まあ、御精《ごせい》が出ますこと。――坊ちゃんはどうなさいました?」
「うちの若様? 若様は今お休み中。」
 女は編針
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