》ぎながら、この平和な二人の上へ、日の光と影とをふり撒いている。文鳥《ぶんちょう》はほとんど囀《さえず》らない。何か唸《うな》る虫が一匹、男の肩へ舞い下りたが、直《すぐ》にそれも飛び去ってしまった。………
 こう云うしばらくの沈黙の後《のち》、敏子は伏せた眼も挙げずに、突然かすかな叫び声を出した。
「あら、お隣の赤さんも死んだんですって。」
「お隣?」
 男はちょいと聞き耳を立てた。
「お隣とはどこだい?」
「お隣よ。ほら、あの上海《シャンハイ》の××館の、――」
「ああ、あの子供か? そりゃ気の毒だな。」
「あんなに丈夫そうな赤さんがねえ。……」
「何だい、病気は?」
「やっぱり風邪《かぜ》ですって。始めは寝冷えぐらいの事と思い居り候ところ、――ですって。」
 敏子はやや興奮したように、口早に手紙を読み続けた。
「病院に入れ候時には、もはや手遅れと相成り、――ね、よく似ているでしょう? 注射を致すやら、酸素吸入《さんそきゅうにゅう》を致すやら、いろいろ手を尽し候えども、――それから何と読むのかしら? 泣き声だわ。泣き声も次第に細るばかり、その夜の十一時五分ほど前には、ついに息を引き取り候。その時の私の悲しさ、重々《じゅうじゅう》御察し下され度《たく》、……」
「気の毒だな。」
 男はもう一度ハムモックに、ゆらりと仰向《あおむ》けになりながら、同じ言葉を繰返した。男の頭のどこかには、未《いまだ》に瀕死《ひんし》の赤児が一人、小さい喘《あえ》ぎを続けている。と思うとその喘ぎは、いつかまた泣き声に変ってしまう。雨の音の間《あいだ》を縫った、健康な赤児の泣き声に。――男はそう云う幻《まぼろし》の中にも、妻の読む手紙に聴き入っていた。
「重々御察し下され度、それにつけてもいつぞや御許様《おんもとさま》に御眼《おんめ》にかかりし事など思い出《いだ》され、あの頃はさぞかし御許様にも、――ああ、いや、いや。ほんとうに世の中はいやになってしまう。」
 敏子は憂鬱な眼を挙げると、神経的に濃い眉《まゆ》をひそめた。が、一瞬の無言の後《のち》、鳥籠《とりかご》の文鳥を見るが早いか、嬉しそうに華奢《きゃしゃ》な両手を拍った。
「ああ、好《い》い事を思いついた! あの文鳥を放してやれば好いわ。」
「放してやる? あのお前の大事の鳥をか?」
「ええ、ええ、大事の鳥でもかまわなくってよ。お隣の赤さんのお追善《ついぜん》ですもの。ほら、放鳥《ほうちょう》って云うでしょう。あの放鳥をして上げるんだわ。文鳥だってきっと喜んでよ。――私には手がとどかないかしら? とどかなかったら、あなた取って頂戴《ちょうだい》。」
 槐《えんじゅ》の根もとに走り寄った敏子は、空気草履《くうきぞうり》を爪立《つまだ》てながら、出来るだけ腕を伸ばして見た。しかし籠を吊した枝には、容易に指さえとどこうとしない。文鳥は気でも違ったように、小さい翼《つばさ》をばたばたやる。その拍子《ひょうし》にまた餌壺《えつぼ》の黍《きび》も、鳥籠の外に散乱する。が、男は面白そうに、ただ敏子を眺めていた。反《そ》らせた喉《のど》、膨《ふくら》んだ胸、爪先《つまさき》に重みを支えた足、――そう云う妻の姿を眺めていた。
「取れないかしら?――取れないわ。」
 敏子は足を爪立《つまだ》てたまま、くるりと夫の方へ向いた。
「取って頂戴よ。よう。」
「取れるものか? 踏み台でもすれば格別だが、――何もまた放すにしても、今|直《すぐ》には限らないじゃないか?」
「だって今直に放したいんですもの、よう。取って頂戴よう。取って下さらなければいじめるわよ。よくって? ハムモックを解いてしまうわよ。――」
 敏子は男を睨《にら》むようにした。が、眼にも唇にも、漲《みなぎ》っているものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か酷薄《こくはく》なものさえ感じた。日の光に煙った草木《くさき》の奥に、いつも人間を見守っている、気味の悪い力に似たものさえ。
「莫迦《ばか》な事をするなよ。――」
 男は葉巻を投げ捨てながら、冗談《じょうだん》のように妻を叱った。
「第一あの何とか云った、お隣の奥さんにもすまないじゃないか? あっちじゃ子供が死んだと云うのに、こっちじゃ笑ったり騒いだり、……」
 すると敏子はどうしたのか、突然蒼白い顔になった。その上|拗《す》ねた子供のように、睫毛《まつげ》の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと苦《にが》い顔をした。が、気まずさを押しのけるためか、急にまた快活に話し続けた。
「だがまあ、こうしていられるのは、とにかく仕合せには違いないね。上海《シャンハイ》にいた時には弱ったからな。病院にいれば気ばかりあせるし、いな
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