したものですから、――ほんとうに夢のようでございました。」
「それも御出《おいで》て※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》にねえ。何と申し上げて好《よ》いかわかりませんわ。」
女の眼にはいつのまにか、かすかに涙が光っている。
「私なぞはそんな目にあったら、まあ、どうするでございましょう?」
「一時は随分《ずいぶん》悲しゅうございましたけれども、――もうあきらめてしまいましたわ。」
二人の母は佇《たたず》んだまま、寂しそうな朝日の光を眺めた。
「こちらは悪い風《かぜ》が流行《はや》りますの。」
女は考え深そうに、途切《とぎ》れていた話を続け出した。
「内地はよろしゅうございますわね。気候もこちらほど不順ではなし、――」
「参りたてでよくはわかりませんけれども、大へん雨の多い所でございますね。」
「今年は余計――あら、泣いて居りますわ。」
女は耳を傾けたまま、別人のような微笑を浮べた。
「ちょいと御免下さいまし。」
しかしその言葉が終らない内に、もうそこへはさっきの女中が、ばたばた上草履《うわぞうり》を鳴らせながら、泣き立てる赤児《あかご》を抱《だ》きそやして来た。赤児を、――美しいメリンスの着物の中に、しかめた顔ばかり出した赤児を、――敏子が内心見まいとしていた、丈夫そうに頤《あご》の括《くく》れた赤児を!
「私が窓を拭《ふ》きに参りますとね、すぐにもう眼を御覚ましなすって。」
「どうも憚《はばか》り様。」
女はまだ慣《な》れなそうに、そっと赤児を胸に取った。
「まあ、御可愛い。」
敏子は顔を寄せながら、鋭い乳の臭いを感じた。
「おお、おお、よく肥《ふと》っていらっしゃる。」
やや上気《じょうき》した女の顔には、絶え間ない微笑が満ち渡った。女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房《ちぶさ》の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然《おうぜん》と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。
三
雍家花園《ようかかえん》の槐《えんじゅ》や柳は、午《ひる》過ぎの微風に戦《そよ》ぎながら、庭や草や土の上へ、日の光と影とをふり撒《ま》いている。いや、草や土ばかりではない。その槐《えんじゅ》に張り渡した、この庭には似合《にあ》わない、水色のハムモックにもふり撒《ま》いている。ハムモックの中に仰向《あおむ》けになった、夏のズボンに胴衣《チョッキ》しかつけない、小肥《こぶと》りの男にもふり撒いている。
男は葉巻に火をつけたまま、槐《えんじゅ》の枝に吊《つ》り下げた、支那風の鳥籠を眺めている。鳥は文鳥《ぶんちょう》か何からしい。これも明暗の斑点《はんてん》の中に、止《とま》り木《ぎ》をあちこち伝わっては、時々さも不思議そうに籠の下の男を眺めている。男はその度にほほ笑《え》みながら、葉巻を口へ運ぶ事もある。あるいはまた人と話すように、「こら」とか「どうした?」とか云う事もある。
あたりは庭木の戦《そよ》ぎの中に、かすかな草の香《か》を蒸《む》らせている。一度ずっと遠い空に汽船の笛《ふえ》の響いたぎり、今はもう人音《ひとおと》も何もしない。あの汽船はとうに去ったであろう。赤濁《あかにご》りに濁った長江《ちょうこう》の水に、眩《まばゆ》い水脈《みお》を引いたなり、西か東かへ去ったであろう。その水の見える波止場《はとば》には、裸も同様な乞食《こじき》が一人、西瓜《すいか》の皮を噛《か》じっている。そこにはまた仔豚《こぶた》の群《むれ》も、長々《ながなが》と横たわった親豚の腹に、乳房《ちぶさ》を争っているかも知れない、――小鳥を見るのにも飽《あ》きた男は、そんな空想に浸《ひた》ったなり、いつかうとうと眠りそうになった。
「あなた。」
男は大きい眼を明いた。ハムモックの側に立っているのは、上海《シャンハイ》の旅館にいた時より、やや血色の好《い》い敏子《としこ》である。髪にも、夏帯にも、中形《ちゅうがた》の湯帷子《ゆかた》にも、やはり明暗の斑点を浴びた、白粉《おしろい》をつけない敏子である。男は妻の顔を見たまま、無遠慮に大きい欠伸《あくび》をした。それからさも大儀《たいぎ》そうに、ハムモックの上へ体を起した。
「郵便よ、あなた。」
敏子は眼だけ笑いながら、何本か手紙を男へ渡した。と同時に湯帷子《ゆかた》の胸から、桃色の封筒《ふうとう》にはいっている、小さい手紙を抜いて見せた。
「今日は私にも来ているのよ。」
男はハムモックに腰かけたなり、もう短い葉巻を噛み噛み、無造作《むぞうさ》に手紙を読み始めた。敏子もそこへ佇《たたず》んだまま、封筒と同じ桃色の紙へ、じっと眼を落している。
雍家花園《ようかかえん》の槐《えんじゅ》や柳は、午過ぎの微風に戦《そよ
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