芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)部屋《へや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四十|格好《がつこう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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        一

 部屋《へや》の隅に据えた姿見《すがたみ》には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海《シャンハイ》特有の旅館の二階が、一部分はっきり映《うつ》っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳《なんじょう》かの畳《たたみ》、最後にこちらへ後《うしろ》を見せた、西洋髪《せいようがみ》の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物《ぬいもの》か何かしているらしい。
 もっとも後は向いたと云う条、地味《じみ》な銘仙《めいせん》の羽織の肩には、崩《くず》れかかった前髪《まえがみ》のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が透《す》いたのも見える。やや長めな揉《も》み上《あ》げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。
 この姿見のある部屋には、隣室の赤児の啼《な》き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。未《いまだ》に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。
「あなた。」
 そう云う何分《なんぷん》かが過ぎ去った後《のち》、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束《おぼつか》なさそうに、こう誰かへ声をかけた。
 誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前《たんぜん》を羽織《はお》った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々《ながなが》と腹這《はらば》いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草《まきたばこ》の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。
「あなた。」
 女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」
 男は幾分うるさそうに、丸々《まるまる》と肥った、口髭《くちひげ》の短い、活動家らしい頭を擡《もた》げた。
「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」
「部屋を変える? だってここへはやっと昨夜《ゆうべ》、引っ越して来たばかりじゃないか?」
 男の顔はけげんそうだった。
「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明《あ》いているでしょう?」
 男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥《は》げた窓側《まどがわ》の壁には、色の変った畳の上に更紗《さらさ》の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵《ジェラニアム》が、薄い埃《ほこり》をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町《よこちょう》に、麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶった支那《シナ》の車夫が、所在なさそうにうろついている。………
「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌《いや》だ嫌だと云っていたじゃないか?」
「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が嫌《いや》になったんですもの。」
 女は針の手をやめると、もの憂《う》そうに顔を挙げて見せた。眉《まゆ》の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの暈《かさ》を見ても、何か苦労を堪《こら》えている事は、多少想像が出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、米噛《こめか》みにも静脈《じょうみゃく》が浮き出している。
「ね、好《い》いでしょう。……いけなくて?」
「しかし前の部屋よりは、広くもあるし居心《いごころ》も好《い》いし、不足を云う理由はないんだから、――それとも何か嫌《いや》な事があるのかい?」
「何って事はないんですけれど。……」
 女はちょいとためらったものの、それ以上立ち入っては答えなかった。が、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。
「いけなくって、どうしても?」
 今度は男が新聞の上へ煙草《たばこ》の煙を吹きかけたぎり、好《い》いとも悪いとも答えなかった。
 部屋の中はまたひっそりになった。ただ外では不相変《あいかわらず》、休みのない雨の音がしている。
「春雨《はるさめ》やか、――」
 男はしばらくたった後《のち》、ごろりと仰向《あおむ》きに寝転《ねころ》ぶと、独り言のようにこう云った。
「蕪湖《ウウフウ》住みをするようになったら、発句《ほっく》でも一つ始めるかな。」
 女は何とも返事をせずに、縫物の手を動かしている。
「蕪湖《ウウフウ》も
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