保吉の手帳から
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)保吉《やすきち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|欠伸《あくび》まじりに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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わん
ある冬の日の暮、保吉《やすきち》は薄汚《うすぎたな》いレストランの二階に脂臭《あぶらくさ》い焼パンを齧《かじ》っていた。彼のテエブルの前にあるのは亀裂《ひび》の入った白壁《しらかべ》だった。そこにはまた斜《はす》かいに、「ホット(あたたかい)サンドウィッチもあります」と書いた、細長い紙が貼《は》りつけてあった。(これを彼の同僚の一人は「ほっと暖いサンドウィッチ」と読み、真面目《まじめ》に不思議《ふしぎ》がったものである。)それから左は下へ降りる階段、右は直《すぐ》に硝子《ガラス》窓だった。彼は焼パンを齧りながら、時々ぼんやり窓の外を眺めた。窓の外には往来の向うに亜鉛屋根《トタンやね》の古着屋が一軒、職工用の青服だのカアキ色のマントだのをぶら下げていた。
その夜《よ》学校には六時半から、英語会が開かれるはずになっていた。それへ出席する義務のあった彼はこの町に住んでいない関係上、厭《いや》でも放課後六時半まではこんなところにいるより仕かたはなかった。確《たし》か土岐哀果《ときあいか》氏の歌に、――間違ったならば御免なさい。――「遠く来てこの糞《くそ》のよなビフテキをかじらねばならず妻よ妻よ恋し」と云うのがある。彼はここへ来る度に、必ずこの歌を思い出した。もっとも恋しがるはずの妻はまだ貰ってはいなかった。しかし古着屋の店を眺め、脂臭《あぶらくさ》い焼パンをかじり、「ホット(あたたかい)サンドウィッチ」を見ると、「妻よ妻よ恋し」と云う言葉はおのずから唇《くちびる》に上《のぼ》って来るのだった。
保吉はこの間《あいだ》も彼の後《うし》ろに、若い海軍の武官が二人、麦酒《ビイル》を飲んでいるのに気がついていた。その中の一人は見覚えのある同じ学校の主計官《しゅけいかん》だった。武官に馴染《なじ》みの薄い彼はこの人の名前を知らなかった。いや、名前ばかりではない。少尉級か中尉級かも知らなかった。ただ彼の知っているのは月々の給金《きゅうきん》を貰う時に、この人の手を経《へ》ると云うことだけだった。もう一人《ひとり》は全然知らなかった。二人《ふたり》は麦酒《ビイル》の代りをする度に、「こら」とか「おい」とか云う言葉を使った。女中はそれでも厭《いや》な顔をせずに、両手にコップを持ちながら、まめに階段を上《のぼ》り下《お》りした。その癖《くせ》保吉のテエブルへは紅茶を一杯《いっぱい》頼んでも容易に持って来てはくれなかった。これはここに限ったことではない。この町のカフェやレストランはどこへ行っても同じことだった。
二人は麦酒を飲みながら、何か大声に話していた。保吉は勿論《もちろん》その話に耳を貸していた訣《わけ》ではなかった。が、ふと彼を驚かしたのは、「わんと云え」と云う言葉だった。彼は犬を好まなかった。犬を好まない文学者にゲエテとストリントベルグとを数えることを愉快《ゆかい》に思っている一人だった。だからこの言葉を耳にした時、彼はこんなところに飼《か》ってい勝ちな、大きい西洋犬《せいよういぬ》を想像した。同時にそれが彼の後《うし》ろにうろついていそうな無気味《ぶきみ》さを感じた。
彼はそっと後ろを見た。が、そこには仕合せと犬らしいものは見えなかった。ただあの主計官が窓の外を見ながら、にやにや笑っているばかりだった。保吉は多分犬のいるのは窓の下だろうと推察《すいさつ》した。しかし何だか変な気がした。すると主計官はもう一度、「わんと云え。おい、わんと云え」と云った。保吉は少し体《からだ》を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じ曲《ま》げ、向うの窓の下を覗《のぞ》いて見た。まず彼の目にはいったのは何とか正宗《まさむね》の広告を兼ねた、まだ火のともらない軒燈《けんとう》だった。それから巻いてある日除《ひよ》けだった。それから麦酒樽《ビイルだる》の天水桶《てんすいおけ》の上に乾《ほ》し忘れたままの爪革《つまかわ》だった。それから、往来の水たまりだった。それから、――あとは何だったにせよ、どこにも犬の影は見なかった。その代りに十二三の乞食《こじき》が一人、二階の窓を見上げながら、寒そうに立っている姿が見えた。
「わんと云え。わんと云わんか!」
主計官はまたこう呼びかけた。その言葉には何か乞食の心を支配する力があるらしかった。乞食はほとんど夢遊病者のように、目はやはり上を見たまま、一二歩窓の下へ歩み寄った。保吉はやっと人の悪い主計官の悪戯《あくぎ》を発見した。悪戯?――あるいは悪戯ではなかったかも知れない。なかったとすれば実験である。人間はどこまで口腹《こうふく》のために、自己の尊厳を犠牲《ぎせい》にするか?――と云うことに関する実験である。保吉自身の考えによると、これは何もいまさらのように実験などすべき問題ではない。エサウは焼肉のために長子権《ちょうしけん》を抛《なげう》ち、保吉はパンのために教師《きょうし》になった。こう云う事実を見れば足りることである。が、あの実験心理学者はなかなかこんなことぐらいでは研究心の満足を感ぜぬのであろう。それならば今日生徒に教えた、De gustibus non est Disputandum である。蓼《たで》食《く》う虫も好き好《ず》きである。実験したければして見るが好《い》い。――保吉はそう思いながら、窓の下の乞食を眺めていた。
主計官はしばらく黙っていた。すると乞食《こじき》は落着かなそうに、往来《おうらい》の前後を見まわし始めた。犬の真似《まね》をすることには格別異存はないにしても、さすがにあたりの人目だけは憚《はばか》っているのに違いなかった。が、その目の定まらない内に、主計官は窓の外へ赤い顔を出しながら、今度は何か振って見せた。
「わんと云え。わんと云えばこれをやるぞ。」
乞食の顔は一瞬間、物欲しさに燃え立つようだった。保吉は時々乞食と云うものにロマンティックな興味を感じていた。が、憐憫《れんびん》とか同情とかは一度も感じたことはなかった。もし感じたと云うものがあれば、莫迦《ばか》か嘘《うそ》つきかだとも信じていた。しかし今その子供の乞食が頸《くび》を少し反《そ》らせたまま、目を輝かせているのを見ると、ちょいといじらしい心もちがした。ただしこの「ちょいと」と云うのは懸《か》け値《ね》のないちょいとである。保吉はいじらしいと思うよりも、むしろそう云う乞食の姿にレムブラント風の効果を愛していた。
「云わんか? おい、わんと云うんだ。」
乞食は顔をしかめるようにした。
「わん。」
声はいかにもかすかだった。
「もっと大きく。」
「わん。わん。」
乞食はとうとう二声鳴いた。と思うと窓の外へネエベル・オレンジが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好《い》い。乞食は勿論オレンジに飛びつき、主計官は勿論《もちろん》笑ったのである。
それから一週間ばかりたった後《のち》、保吉はまた月給日に主計部へ月給を貰いに行った。あの主計官は忙《いそが》しそうにあちらの帳簿《ちょうぼ》を開いたり、こちらの書類を拡《ひろ》げたりしていた。それが彼の顔を見ると、「俸給《ほうきゅう》ですね」と一言《ひとこと》云った。彼も「そうです」と一言答えた。が、主計官は用が多いのか、容易《ようい》に月給を渡さなかった。のみならずしまいには彼の前へ軍服の尻《しり》を向けたまま、いつまでも算盤《そろばん》を弾《はじ》いていた。
「主計官。」
保吉はしばらく待たされた後《のち》、懇願《こんがん》するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇《くちびる》には明らかに「直《すぐ》です」と云う言葉が出かかっていた。しかし彼はそれよりも先に、ちゃんと仕上げをした言葉を継《つ》いだ。
「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」
保吉の信ずるところによれば、そう云った時の彼の声は天使よりも優しいくらいだった。
西洋人
この学校へは西洋人が二人、会話や英作文を教えに来ていた。一人はタウンゼンドと云う英吉利《イギリス》人、もう一人はスタアレットと云う亜米利加《アメリカ》人だった。
タウンゼンド氏は頭の禿《は》げた、日本語の旨い好々爺《こうこうや》だった。由来西洋人の教師《きょうし》と云うものはいかなる俗物にも関《かかわ》らずシェクスピイアとかゲエテとかを喋々《ちょうちょう》してやまないものである。しかし幸いにタウンゼンド氏は文芸の文の字もわかったとは云わない。いつかウワアズワアスの話が出たら、「詩と云うものは全然わからぬ。ウワアズワアスなどもどこが好《よ》いのだろう」と云った。
保吉《やすきち》はこのタウンゼンド氏と同じ避暑地《ひしょち》に住んでいたから、学校の往復にも同じ汽車に乗った。汽車はかれこれ三十分ばかりかかる。二人はその汽車の中にグラスゴオのパイプを啣《くわ》えながら、煙草《たばこ》の話だの学校の話だの幽霊《ゆうれい》の話だのを交換した。セオソフィストたるタウンゼンド氏はハムレットに興味を持たないにしても、ハムレットの親父《おやじ》の幽霊には興味を持っていたからである。しかし魔術とか錬金術《れんきんじゅつ》とか、occult sciences の話になると、氏は必ずもの悲しそうに頭とパイプとを一しょに振りながら、「神秘の扉《とびら》は俗人の思うほど、開《ひら》き難いものではない。むしろその恐しい所以《ゆえん》は容易《ようい》に閉じ難いところにある。ああ云うものには手を触《ふ》れぬが好《よ》い」と云った。
もう一人のスタアレット氏はずっと若い洒落者《しゃれもの》だった。冬は暗緑色のオオヴァ・コートに赤い襟巻《えりまき》などを巻きつけて来た。この人はタウンゼンド氏に比べると、時々は新刊書も覗《のぞ》いて見るらしい。現に学校の英語会に「最近の亜米利加《アメリカ》の小説家」と云う大講演をやったこともある。もっともその講演によれば、最近の亜米利加の大小説家はロバアト・ルイズ・スティヴンソンかオオ・ヘンリイだと云うことだった!
スタアレット氏も同じ避暑地ではないが、やはり沿線のある町にいたから、汽車を共にすることは度たびあった。保吉は氏とどんな話をしたか、ほとんど記憶に残っていない。ただ一つ覚えているのは、待合室の煖炉《だんろ》の前に汽車を待っていた時のことである。保吉はその時|欠伸《あくび》まじりに、教師と云う職業の退屈《たいくつ》さを話した。すると縁無《ふちな》しの眼鏡《めがね》をかけた、男ぶりの好《よ》いスタアレット氏はちょいと妙な顔をしながら、
「教師になるのは職業ではない。むしろ天職と呼ぶべきだと思う。You know, Socrates and Plato are two great teachers …… Etc.」と云った。
ロバアト・ルイズ・スティヴンソンはヤンキイでも何でも差支えない。が、ソクラテスとプレトオをも教師だったなどと云うのは、――保吉は爾来《じらい》スタアレット氏に慇懃《いんぎん》なる友情を尽すことにした。
午休《ひるやす》み
――或空想――
保吉《やすきち》は二階の食堂を出た。文官教官は午飯《ひるめし》の後《のち》はたいてい隣の喫煙室《きつえんしつ》へはいる。彼は今日はそこへ行かずに、庭へ出る階段を降《くだ》ることにした。すると下から下士が一人、一飛びに階段を三段ずつ蝗《いなご》のように登って来た。それが彼の顔を見ると、突然|厳格《げんかく》に挙手の礼をした。するが早いか一躍《ひとおど》りに保吉の頭を躍《おど》り越えた。彼は誰
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