もいない空間へちょいと会釈《えしゃく》を返しながら、悠々と階段を降り続けた。
庭には槙《まき》や榧《かや》の間《あいだ》に、木蘭《もくれん》が花を開いている。木蘭はなぜか日の当る南へ折角《せっかく》の花を向けないらしい。が、辛夷《こぶし》は似ている癖に、きっと南へ花を向けている。保吉は巻煙草《まきたばこ》に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒《せきれい》が一羽舞い下《さが》って来た。鶺鴒も彼には疎遠《そえん》ではない。あの小さい尻尾《しっぽ》を振るのは彼を案内する信号である。
「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっち!」
彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利《じゃり》を敷いた小径《こみち》を歩いて行った。が、鶺鴒はどう思ったか、突然また空へ躍《おど》り上った。その代り背の高い機関兵が一人、小径をこちらへ歩いて来た。保吉はこの機関兵の顔にどこか見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼した後《のち》、さっさと彼の側《そば》を通り抜けた。彼は煙草《たばこ》の煙を吹きながら、誰だったかしらと考え続けた。二歩、三歩、五歩、――十歩目に保吉は発見した。あれはポオル・ゴオギャンである。あるいはゴオギャンの転生《てんしょう》である。今にきっとシャヴルの代りに画筆《がひつ》を握るのに相違ない。そのまた挙句《あげく》に気違いの友だちに後《うし》ろからピストルを射かけられるのである。可哀《かわい》そうだが、どうも仕方がない。
保吉はとうとう小径伝いに玄関《げんかん》の前の広場へ出た。そこには戦利品の大砲が二門、松や笹の中に並んでいる。ちょいと砲身に耳を当てて見たら、何だか息の通る音がした。大砲も欠伸《あくび》をするかも知れない。彼は大砲の下に腰を下した。それから二本目の巻煙草へ火をつけた。もう車廻しの砂利《じゃり》の上には蜥蜴《とかげ》が一匹光っている。人間は足を切られたが最後、再び足は製造出来ない。しかし蜥蜴は尻《し》っ尾《ぽ》を切られると、直《すぐ》にまた尻っ尾を製造する。保吉は煙草を啣《くわ》えたまま、蜥蝪はきっとラマルクよりもラマルキアンに違いないと思った。が、しばらく眺めていると、蜥蜴はいつか砂利に垂れた一すじの重油に変ってしまった。
保吉はやっと立ち上った。ペンキ塗りの校舎に沿いながら、もう一度庭を向うへ抜けると、海に面する運動場へ出た。土の赤いテニス・コオトには武官教官が何人か、熱心に勝負を争っている。コオトの上の空間は絶えず何かを破裂させる。同時にネットの右や左へ薄白《うすじろ》い直線を迸《ほとばし》らせる。あれは球《たま》の飛ぶのではない。目に見えぬ三鞭酒《シャンパン》を抜いているのである。そのまた三鞭酒《シャンパン》をワイシャツの神々が旨そうに飲んでいるのである。保吉は神々を讃美しながら、今度は校舎の裏庭へまわった。
裏庭には薔薇《ばら》が沢山ある。もっとも花はまだ一輪もない。彼はそこを歩きながら、径《みち》へさし出た薔薇の枝に毛虫《けむし》を一匹発見した。と思うとまた一匹、隣の葉の上にも這《は》っているのがあった。毛虫は互に頷《うなず》き頷き、彼のことか何か話しているらしい。保吉はそっと立ち聞きすることにした。
第一の毛虫 この教官はいつ蝶《ちょう》になるのだろう? 我々の曾々々祖父《そそそそふ》の代から、地面の上ばかり這《は》いまわっている。
第二の毛虫 人間は蝶にならないのかも知れない。
第一の毛虫 いや、なることはなるらしい。あすこにも現在飛んでいるから。
第二の毛虫 なるほど、飛んでいるのがある。しかし何と云う醜《みにく》さだろう! 美意識《びいしき》さえ人間にはないと見える。
保吉は額《ひたい》に手をかざしながら、頭の上へ来た飛行機を仰《あお》いだ。
そこに同僚に化《ば》けた悪魔が一人、何か愉快そうに歩いて来た。昔は錬金術《れんきんじゅつ》を教えた悪魔も今は生徒に応用化学《おうようかがく》を教えている。それがにやにや笑いながら、こう保吉に話しかけた。
「おい、今夜つき合わんか?」
保吉は悪魔の微笑の中にありありとファウストの二行《にぎょう》を感じた。――「一切の理論は灰色だが、緑なのは黄金《こがね》なす生活の樹《き》だ!」
彼は悪魔に別れた後《のち》、校舎の中へ靴《くつ》を移した。教室は皆がらんとしている。通りすがりに覗《のぞ》いて見たら、ただある教室の黒板の上に幾何《きか》の図《ず》が一つ描《か》き忘れてあった。幾何の図は彼が覗いたのを知ると、消されると思ったのに違いない。たちまち伸《の》びたり縮《ちぢ》んだりしながら、
「次の時間に入用《いりよう》なのです。」と云った。
保吉はもと降りた階段を登り、語学と数学との教官室へはいった。教官室には頭の禿《は》げたタウンゼンド氏のほかに誰もいない。しかもこの老教師は退屈まぎれに口笛《くちぶえ》を吹き吹き、一人ダンスを試みている。保吉はちょいと苦笑したまま、洗面台の前へ手を洗いに行った。その時ふと鏡《かがみ》を見ると、驚いたことにタウンゼンド氏はいつのまにか美少年に変り、保吉自身は腰の曲った白頭《はくとう》の老人に変っていた。
恥《はじ》
保吉《やすきち》は教室へ出る前に、必ず教科書の下調《したしら》べをした。それは月給を貰《もら》っているから、出たらめなことは出来ないと云う義務心によったばかりではない。教科書には学校の性質上海上用語が沢山出て来る。それをちゃんと検《しら》べて置かないと、とんでもない誤訳をやりかねない。たとえば Cat's paw と云うから、猫《ねこ》の足かと思っていれば、そよ風だったりするたぐいである。
ある時彼は二年級の生徒に、やはり航海のことを書いた、何とか云う小品《しょうひん》を教えていた。それは恐るべき悪文だった。マストに風が唸《うな》ったり、ハッチへ浪《なみ》が打ちこんだりしても、その浪なり風なりは少しも文字の上へ浮ばなかった。彼は生徒に訳読《やくどく》をさせながら、彼自身先に退屈し出した。こう云う時ほど生徒を相手に、思想問題とか時事問題とかを弁《べん》じたい興味に駆《か》られることはない。元来教師と云うものは学科以外の何ものかを教えたがるものである。道徳、趣味《しゅみ》、人生観、――何と名づけても差支《さしつか》えない。とにかく教科書や黒板よりも教師自身の心臓《しんぞう》に近い何ものかを教えたがるものである。しかし生憎《あいにく》生徒と云うものは学科以外の何ものをも教わりたがらないものである。いや、教わりたがらないのではない。絶対に教わることを嫌悪《けんお》するものである。保吉はそう信じていたから、この場合も退屈し切ったまま、訳読を進めるより仕かたなかった。
しかし生徒の訳読に一応耳を傾けた上、綿密《めんみつ》に誤《あやまり》を直したりするのは退屈しない時でさえ、かなり保吉には面倒《めんどう》だった。彼は一時間の授業時間を三十分ばかり過《すご》した後《のち》、とうとう訳読を中止させた。その代りに今度は彼自身一節ずつ読んでは訳し出した。教科書の中の航海は不相変《あいかわらず》退屈を極めていた。同時にまた彼の教えぶりも負けずに退屈を極めていた。彼は無風帯を横ぎる帆船《はんせん》のように、動詞のテンスを見落したり関係代名詞を間違えたり、行き悩《なや》み行き悩み進んで行った。
そのうちにふと気がついて見ると、彼の下検《したしら》べをして来たところはもうたった四五行《しごぎょう》しかなかった。そこを一つ通り越せば、海上用語の暗礁《あんしょう》に満ちた、油断のならない荒海《あらうみ》だった。彼は横目《よこめ》で時計を見た。時間は休みの喇叭《らっぱ》までにたっぷり二十分は残っていた。彼は出来るだけ叮嚀《ていねい》に、下検べの出来ている四五行を訳した。が、訳してしまって見ると、時計の針はその間《あいだ》にまだ三分しか動いていなかった。
保吉は絶体絶命《ぜったいぜつめい》になった。この場合|唯一《ゆいいつ》の血路《けつろ》になるものは生徒の質問に応ずることだった。それでもまだ時間が余れば、早じまいを宣《せん》してしまうことだった。彼は教科書を置きながら、「質問は――」と口を切ろうとした。と、突然まっ赤になった。なぜそんなにまっ赤になったか?――それは彼自身にも説明出来ない。とにかく生徒を護摩《ごま》かすくらいは何とも思わぬはずの彼がその時だけはまっ赤になったのである。生徒は勿論《もちろん》何も知らずにまじまじ彼の顔を眺めていた。彼はもう一度時計を見た。それから、――教科書を取り上げるが早いか、無茶苦茶に先を読み始めた。
教科書の中の航海はその後《ご》も退屈なものだったかも知れない。しかし彼の教えぶりは、――保吉は未《いまだ》に確信している。タイフウンと闘《たたか》う帆船よりも、もっと壮烈を極めたものだった。
勇ましい守衛
秋の末か冬の初か、その辺《へん》の記憶ははっきりしない。とにかく学校へ通《かよ》うのにオオヴァ・コオトをひっかける時分だった。午飯《ひるめし》のテエブルについた時、ある若い武官教官が隣に坐っている保吉《やすきち》にこう云う最近の椿事《ちんじ》を話した。――つい二三日前の深更《しんこう》、鉄盗人《てつぬすびと》が二三人学校の裏手へ舟を着けた。それを発見した夜警中の守衛《しゅえい》は単身彼等を逮捕《たいほ》しようとした。ところが烈《はげ》しい格闘《かくとう》の末、あべこべに海へ抛《ほう》りこまれた。守衛は濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》になりながら、やっと岸へ這《は》い上った。が、勿論盗人の舟はその間《あいだ》にもう沖《おき》の闇へ姿を隠していたのである。
「大浦《おおうら》と云う守衛ですがね。莫迦莫迦《ばかばか》しい目に遇《あ》ったですよ。」
武官はパンを頬張《ほおば》ったなり、苦しそうに笑っていた。
大浦は保吉も知っていた。守衛は何人か交替《こうたい》に門側《もんがわ》の詰《つ》め所に控《ひか》えている。そうして武官と文官とを問わず、教官の出入《ではいり》を見る度に、挙手《きょしゅ》の礼をすることになっている。保吉は敬礼されるのも敬礼に答えるのも好まなかったから、敬礼する暇《ひま》を与えぬように、詰め所を通る時は特に足を早めることにした。が、この大浦と云う守衛だけは容易《ようい》に目つぶしを食わされない。第一詰め所に坐ったまま、門の内外《うちそと》五六間の距離へ絶えず目を注《そそ》いでいる。だから保吉の影が見えると、まだその前へ来ない内に、ちゃんともう敬礼の姿勢をしている。こうなれば宿命と思うほかはない。保吉はとうとう観念《かんねん》した。いや、観念したばかりではない。この頃は大浦を見つけるが早いか、響尾蛇《がらがらへび》に狙《ねら》われた兎《うさぎ》のように、こちらから帽《ぼう》さえとっていたのである。
それが今聞けば盗人《ぬすびと》のために、海へ投げこまれたと云うのである。保吉はちょいと同情しながら、やはり笑わずにはいられなかった。
すると五六日たってから、保吉は停車場《ていしゃば》の待合室に偶然大浦を発見した。大浦は彼の顔を見ると、そう云う場所にも関《かかわ》らず、ぴたりと姿勢を正した上、不相変《あいかわらず》厳格に挙手の礼をした。保吉ははっきり彼の後《うし》ろに詰め所の入口が見えるような気がした。
「君はこの間――」
しばらく沈黙が続いた後《のち》、保吉はこう話しかけた。
「ええ、泥坊《どろぼう》を掴《つか》まえ損じまして、――」
「ひどい目に遇《あ》ったですね。」
「幸い怪我《けが》はせずにすみましたが、――」
大浦は苦笑《くしょう》を浮べたまま、自《みずか》ら嘲《あざけ》るように話し続けた。
「何、無理《むり》にも掴《つか》まえようと思えば、一人《ひとり》ぐらいは掴まえられたのです。しかし掴まえて見たところが、それっきりの話ですし、――」
「それっきりと云うのは?」
「賞与も何も貰《もら》え
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