もいない空間へちょいと会釈《えしゃく》を返しながら、悠々と階段を降り続けた。
 庭には槙《まき》や榧《かや》の間《あいだ》に、木蘭《もくれん》が花を開いている。木蘭はなぜか日の当る南へ折角《せっかく》の花を向けないらしい。が、辛夷《こぶし》は似ている癖に、きっと南へ花を向けている。保吉は巻煙草《まきたばこ》に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒《せきれい》が一羽舞い下《さが》って来た。鶺鴒も彼には疎遠《そえん》ではない。あの小さい尻尾《しっぽ》を振るのは彼を案内する信号である。
「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっち!」
 彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利《じゃり》を敷いた小径《こみち》を歩いて行った。が、鶺鴒はどう思ったか、突然また空へ躍《おど》り上った。その代り背の高い機関兵が一人、小径をこちらへ歩いて来た。保吉はこの機関兵の顔にどこか見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼した後《のち》、さっさと彼の側《そば》を通り抜けた。彼は煙草《たばこ》の煙を吹きながら、誰だったかしらと考え続けた。二歩、三歩、五歩、――十歩目に保吉は発
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