lt sciences の話になると、氏は必ずもの悲しそうに頭とパイプとを一しょに振りながら、「神秘の扉《とびら》は俗人の思うほど、開《ひら》き難いものではない。むしろその恐しい所以《ゆえん》は容易《ようい》に閉じ難いところにある。ああ云うものには手を触《ふ》れぬが好《よ》い」と云った。
もう一人のスタアレット氏はずっと若い洒落者《しゃれもの》だった。冬は暗緑色のオオヴァ・コートに赤い襟巻《えりまき》などを巻きつけて来た。この人はタウンゼンド氏に比べると、時々は新刊書も覗《のぞ》いて見るらしい。現に学校の英語会に「最近の亜米利加《アメリカ》の小説家」と云う大講演をやったこともある。もっともその講演によれば、最近の亜米利加の大小説家はロバアト・ルイズ・スティヴンソンかオオ・ヘンリイだと云うことだった!
スタアレット氏も同じ避暑地ではないが、やはり沿線のある町にいたから、汽車を共にすることは度たびあった。保吉は氏とどんな話をしたか、ほとんど記憶に残っていない。ただ一つ覚えているのは、待合室の煖炉《だんろ》の前に汽車を待っていた時のことである。保吉はその時|欠伸《あくび》まじりに、教師と云う職業の退屈《たいくつ》さを話した。すると縁無《ふちな》しの眼鏡《めがね》をかけた、男ぶりの好《よ》いスタアレット氏はちょいと妙な顔をしながら、
「教師になるのは職業ではない。むしろ天職と呼ぶべきだと思う。You know, Socrates and Plato are two great teachers …… Etc.」と云った。
ロバアト・ルイズ・スティヴンソンはヤンキイでも何でも差支えない。が、ソクラテスとプレトオをも教師だったなどと云うのは、――保吉は爾来《じらい》スタアレット氏に慇懃《いんぎん》なる友情を尽すことにした。
午休《ひるやす》み
――或空想――
保吉《やすきち》は二階の食堂を出た。文官教官は午飯《ひるめし》の後《のち》はたいてい隣の喫煙室《きつえんしつ》へはいる。彼は今日はそこへ行かずに、庭へ出る階段を降《くだ》ることにした。すると下から下士が一人、一飛びに階段を三段ずつ蝗《いなご》のように登って来た。それが彼の顔を見ると、突然|厳格《げんかく》に挙手の礼をした。するが早いか一躍《ひとおど》りに保吉の頭を躍《おど》り越えた。彼は誰もいない空間へちょいと会釈《えしゃく》を返しながら、悠々と階段を降り続けた。
庭には槙《まき》や榧《かや》の間《あいだ》に、木蘭《もくれん》が花を開いている。木蘭はなぜか日の当る南へ折角《せっかく》の花を向けないらしい。が、辛夷《こぶし》は似ている癖に、きっと南へ花を向けている。保吉は巻煙草《まきたばこ》に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒《せきれい》が一羽舞い下《さが》って来た。鶺鴒も彼には疎遠《そえん》ではない。あの小さい尻尾《しっぽ》を振るのは彼を案内する信号である。
「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっち!」
彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利《じゃり》を敷いた小径《こみち》を歩いて行った。が、鶺鴒はどう思ったか、突然また空へ躍《おど》り上った。その代り背の高い機関兵が一人、小径をこちらへ歩いて来た。保吉はこの機関兵の顔にどこか見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼した後《のち》、さっさと彼の側《そば》を通り抜けた。彼は煙草《たばこ》の煙を吹きながら、誰だったかしらと考え続けた。二歩、三歩、五歩、――十歩目に保吉は発見した。あれはポオル・ゴオギャンである。あるいはゴオギャンの転生《てんしょう》である。今にきっとシャヴルの代りに画筆《がひつ》を握るのに相違ない。そのまた挙句《あげく》に気違いの友だちに後《うし》ろからピストルを射かけられるのである。可哀《かわい》そうだが、どうも仕方がない。
保吉はとうとう小径伝いに玄関《げんかん》の前の広場へ出た。そこには戦利品の大砲が二門、松や笹の中に並んでいる。ちょいと砲身に耳を当てて見たら、何だか息の通る音がした。大砲も欠伸《あくび》をするかも知れない。彼は大砲の下に腰を下した。それから二本目の巻煙草へ火をつけた。もう車廻しの砂利《じゃり》の上には蜥蜴《とかげ》が一匹光っている。人間は足を切られたが最後、再び足は製造出来ない。しかし蜥蜴は尻《し》っ尾《ぽ》を切られると、直《すぐ》にまた尻っ尾を製造する。保吉は煙草を啣《くわ》えたまま、蜥蝪はきっとラマルクよりもラマルキアンに違いないと思った。が、しばらく眺めていると、蜥蜴はいつか砂利に垂れた一すじの重油に変ってしまった。
保吉はやっと立ち上った。ペンキ塗りの校舎に沿いながら、もう一度庭を向うへ抜けると、海に
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