面する運動場へ出た。土の赤いテニス・コオトには武官教官が何人か、熱心に勝負を争っている。コオトの上の空間は絶えず何かを破裂させる。同時にネットの右や左へ薄白《うすじろ》い直線を迸《ほとばし》らせる。あれは球《たま》の飛ぶのではない。目に見えぬ三鞭酒《シャンパン》を抜いているのである。そのまた三鞭酒《シャンパン》をワイシャツの神々が旨そうに飲んでいるのである。保吉は神々を讃美しながら、今度は校舎の裏庭へまわった。
 裏庭には薔薇《ばら》が沢山ある。もっとも花はまだ一輪もない。彼はそこを歩きながら、径《みち》へさし出た薔薇の枝に毛虫《けむし》を一匹発見した。と思うとまた一匹、隣の葉の上にも這《は》っているのがあった。毛虫は互に頷《うなず》き頷き、彼のことか何か話しているらしい。保吉はそっと立ち聞きすることにした。
 第一の毛虫 この教官はいつ蝶《ちょう》になるのだろう? 我々の曾々々祖父《そそそそふ》の代から、地面の上ばかり這《は》いまわっている。
 第二の毛虫 人間は蝶にならないのかも知れない。
 第一の毛虫 いや、なることはなるらしい。あすこにも現在飛んでいるから。
 第二の毛虫 なるほど、飛んでいるのがある。しかし何と云う醜《みにく》さだろう! 美意識《びいしき》さえ人間にはないと見える。
 保吉は額《ひたい》に手をかざしながら、頭の上へ来た飛行機を仰《あお》いだ。
 そこに同僚に化《ば》けた悪魔が一人、何か愉快そうに歩いて来た。昔は錬金術《れんきんじゅつ》を教えた悪魔も今は生徒に応用化学《おうようかがく》を教えている。それがにやにや笑いながら、こう保吉に話しかけた。
「おい、今夜つき合わんか?」
 保吉は悪魔の微笑の中にありありとファウストの二行《にぎょう》を感じた。――「一切の理論は灰色だが、緑なのは黄金《こがね》なす生活の樹《き》だ!」
 彼は悪魔に別れた後《のち》、校舎の中へ靴《くつ》を移した。教室は皆がらんとしている。通りすがりに覗《のぞ》いて見たら、ただある教室の黒板の上に幾何《きか》の図《ず》が一つ描《か》き忘れてあった。幾何の図は彼が覗いたのを知ると、消されると思ったのに違いない。たちまち伸《の》びたり縮《ちぢ》んだりしながら、
「次の時間に入用《いりよう》なのです。」と云った。
 保吉はもと降りた階段を登り、語学と数学との教官室へはいった。教官室には頭の禿《は》げたタウンゼンド氏のほかに誰もいない。しかもこの老教師は退屈まぎれに口笛《くちぶえ》を吹き吹き、一人ダンスを試みている。保吉はちょいと苦笑したまま、洗面台の前へ手を洗いに行った。その時ふと鏡《かがみ》を見ると、驚いたことにタウンゼンド氏はいつのまにか美少年に変り、保吉自身は腰の曲った白頭《はくとう》の老人に変っていた。

     恥《はじ》

 保吉《やすきち》は教室へ出る前に、必ず教科書の下調《したしら》べをした。それは月給を貰《もら》っているから、出たらめなことは出来ないと云う義務心によったばかりではない。教科書には学校の性質上海上用語が沢山出て来る。それをちゃんと検《しら》べて置かないと、とんでもない誤訳をやりかねない。たとえば Cat's paw と云うから、猫《ねこ》の足かと思っていれば、そよ風だったりするたぐいである。
 ある時彼は二年級の生徒に、やはり航海のことを書いた、何とか云う小品《しょうひん》を教えていた。それは恐るべき悪文だった。マストに風が唸《うな》ったり、ハッチへ浪《なみ》が打ちこんだりしても、その浪なり風なりは少しも文字の上へ浮ばなかった。彼は生徒に訳読《やくどく》をさせながら、彼自身先に退屈し出した。こう云う時ほど生徒を相手に、思想問題とか時事問題とかを弁《べん》じたい興味に駆《か》られることはない。元来教師と云うものは学科以外の何ものかを教えたがるものである。道徳、趣味《しゅみ》、人生観、――何と名づけても差支《さしつか》えない。とにかく教科書や黒板よりも教師自身の心臓《しんぞう》に近い何ものかを教えたがるものである。しかし生憎《あいにく》生徒と云うものは学科以外の何ものをも教わりたがらないものである。いや、教わりたがらないのではない。絶対に教わることを嫌悪《けんお》するものである。保吉はそう信じていたから、この場合も退屈し切ったまま、訳読を進めるより仕かたなかった。
 しかし生徒の訳読に一応耳を傾けた上、綿密《めんみつ》に誤《あやまり》を直したりするのは退屈しない時でさえ、かなり保吉には面倒《めんどう》だった。彼は一時間の授業時間を三十分ばかり過《すご》した後《のち》、とうとう訳読を中止させた。その代りに今度は彼自身一節ずつ読んでは訳し出した。教科書の中の航海は不相変《あいかわらず》退屈を極めていた。同時にまた彼の
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