ウえぶりも負けずに退屈を極めていた。彼は無風帯を横ぎる帆船《はんせん》のように、動詞のテンスを見落したり関係代名詞を間違えたり、行き悩《なや》み行き悩み進んで行った。
 そのうちにふと気がついて見ると、彼の下検《したしら》べをして来たところはもうたった四五行《しごぎょう》しかなかった。そこを一つ通り越せば、海上用語の暗礁《あんしょう》に満ちた、油断のならない荒海《あらうみ》だった。彼は横目《よこめ》で時計を見た。時間は休みの喇叭《らっぱ》までにたっぷり二十分は残っていた。彼は出来るだけ叮嚀《ていねい》に、下検べの出来ている四五行を訳した。が、訳してしまって見ると、時計の針はその間《あいだ》にまだ三分しか動いていなかった。
 保吉は絶体絶命《ぜったいぜつめい》になった。この場合|唯一《ゆいいつ》の血路《けつろ》になるものは生徒の質問に応ずることだった。それでもまだ時間が余れば、早じまいを宣《せん》してしまうことだった。彼は教科書を置きながら、「質問は――」と口を切ろうとした。と、突然まっ赤になった。なぜそんなにまっ赤になったか?――それは彼自身にも説明出来ない。とにかく生徒を護摩《ごま》かすくらいは何とも思わぬはずの彼がその時だけはまっ赤になったのである。生徒は勿論《もちろん》何も知らずにまじまじ彼の顔を眺めていた。彼はもう一度時計を見た。それから、――教科書を取り上げるが早いか、無茶苦茶に先を読み始めた。
 教科書の中の航海はその後《ご》も退屈なものだったかも知れない。しかし彼の教えぶりは、――保吉は未《いまだ》に確信している。タイフウンと闘《たたか》う帆船よりも、もっと壮烈を極めたものだった。

     勇ましい守衛

 秋の末か冬の初か、その辺《へん》の記憶ははっきりしない。とにかく学校へ通《かよ》うのにオオヴァ・コオトをひっかける時分だった。午飯《ひるめし》のテエブルについた時、ある若い武官教官が隣に坐っている保吉《やすきち》にこう云う最近の椿事《ちんじ》を話した。――つい二三日前の深更《しんこう》、鉄盗人《てつぬすびと》が二三人学校の裏手へ舟を着けた。それを発見した夜警中の守衛《しゅえい》は単身彼等を逮捕《たいほ》しようとした。ところが烈《はげ》しい格闘《かくとう》の末、あべこべに海へ抛《ほう》りこまれた。守衛は濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》になりながら、やっと岸へ這《は》い上った。が、勿論盗人の舟はその間《あいだ》にもう沖《おき》の闇へ姿を隠していたのである。
「大浦《おおうら》と云う守衛ですがね。莫迦莫迦《ばかばか》しい目に遇《あ》ったですよ。」
 武官はパンを頬張《ほおば》ったなり、苦しそうに笑っていた。
 大浦は保吉も知っていた。守衛は何人か交替《こうたい》に門側《もんがわ》の詰《つ》め所に控《ひか》えている。そうして武官と文官とを問わず、教官の出入《ではいり》を見る度に、挙手《きょしゅ》の礼をすることになっている。保吉は敬礼されるのも敬礼に答えるのも好まなかったから、敬礼する暇《ひま》を与えぬように、詰め所を通る時は特に足を早めることにした。が、この大浦と云う守衛だけは容易《ようい》に目つぶしを食わされない。第一詰め所に坐ったまま、門の内外《うちそと》五六間の距離へ絶えず目を注《そそ》いでいる。だから保吉の影が見えると、まだその前へ来ない内に、ちゃんともう敬礼の姿勢をしている。こうなれば宿命と思うほかはない。保吉はとうとう観念《かんねん》した。いや、観念したばかりではない。この頃は大浦を見つけるが早いか、響尾蛇《がらがらへび》に狙《ねら》われた兎《うさぎ》のように、こちらから帽《ぼう》さえとっていたのである。
 それが今聞けば盗人《ぬすびと》のために、海へ投げこまれたと云うのである。保吉はちょいと同情しながら、やはり笑わずにはいられなかった。
 すると五六日たってから、保吉は停車場《ていしゃば》の待合室に偶然大浦を発見した。大浦は彼の顔を見ると、そう云う場所にも関《かかわ》らず、ぴたりと姿勢を正した上、不相変《あいかわらず》厳格に挙手の礼をした。保吉ははっきり彼の後《うし》ろに詰め所の入口が見えるような気がした。
「君はこの間――」
 しばらく沈黙が続いた後《のち》、保吉はこう話しかけた。
「ええ、泥坊《どろぼう》を掴《つか》まえ損じまして、――」
「ひどい目に遇《あ》ったですね。」
「幸い怪我《けが》はせずにすみましたが、――」
 大浦は苦笑《くしょう》を浮べたまま、自《みずか》ら嘲《あざけ》るように話し続けた。
「何、無理《むり》にも掴《つか》まえようと思えば、一人《ひとり》ぐらいは掴まえられたのです。しかし掴まえて見たところが、それっきりの話ですし、――」
「それっきりと云うのは?」
「賞与も何も貰《もら》え
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