病者のように、目はやはり上を見たまま、一二歩窓の下へ歩み寄った。保吉はやっと人の悪い主計官の悪戯《あくぎ》を発見した。悪戯?――あるいは悪戯ではなかったかも知れない。なかったとすれば実験である。人間はどこまで口腹《こうふく》のために、自己の尊厳を犠牲《ぎせい》にするか?――と云うことに関する実験である。保吉自身の考えによると、これは何もいまさらのように実験などすべき問題ではない。エサウは焼肉のために長子権《ちょうしけん》を抛《なげう》ち、保吉はパンのために教師《きょうし》になった。こう云う事実を見れば足りることである。が、あの実験心理学者はなかなかこんなことぐらいでは研究心の満足を感ぜぬのであろう。それならば今日生徒に教えた、De gustibus non est Disputandum である。蓼《たで》食《く》う虫も好き好《ず》きである。実験したければして見るが好《い》い。――保吉はそう思いながら、窓の下の乞食を眺めていた。
 主計官はしばらく黙っていた。すると乞食《こじき》は落着かなそうに、往来《おうらい》の前後を見まわし始めた。犬の真似《まね》をすることには格別異存はないにしても、さすがにあたりの人目だけは憚《はばか》っているのに違いなかった。が、その目の定まらない内に、主計官は窓の外へ赤い顔を出しながら、今度は何か振って見せた。
「わんと云え。わんと云えばこれをやるぞ。」
 乞食の顔は一瞬間、物欲しさに燃え立つようだった。保吉は時々乞食と云うものにロマンティックな興味を感じていた。が、憐憫《れんびん》とか同情とかは一度も感じたことはなかった。もし感じたと云うものがあれば、莫迦《ばか》か嘘《うそ》つきかだとも信じていた。しかし今その子供の乞食が頸《くび》を少し反《そ》らせたまま、目を輝かせているのを見ると、ちょいといじらしい心もちがした。ただしこの「ちょいと」と云うのは懸《か》け値《ね》のないちょいとである。保吉はいじらしいと思うよりも、むしろそう云う乞食の姿にレムブラント風の効果を愛していた。
「云わんか? おい、わんと云うんだ。」
 乞食は顔をしかめるようにした。
「わん。」
 声はいかにもかすかだった。
「もっと大きく。」
「わん。わん。」
 乞食はとうとう二声鳴いた。と思うと窓の外へネエベル・オレンジが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好《い》い。乞食は勿論オレンジに飛びつき、主計官は勿論《もちろん》笑ったのである。
 それから一週間ばかりたった後《のち》、保吉はまた月給日に主計部へ月給を貰いに行った。あの主計官は忙《いそが》しそうにあちらの帳簿《ちょうぼ》を開いたり、こちらの書類を拡《ひろ》げたりしていた。それが彼の顔を見ると、「俸給《ほうきゅう》ですね」と一言《ひとこと》云った。彼も「そうです」と一言答えた。が、主計官は用が多いのか、容易《ようい》に月給を渡さなかった。のみならずしまいには彼の前へ軍服の尻《しり》を向けたまま、いつまでも算盤《そろばん》を弾《はじ》いていた。
「主計官。」
 保吉はしばらく待たされた後《のち》、懇願《こんがん》するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇《くちびる》には明らかに「直《すぐ》です」と云う言葉が出かかっていた。しかし彼はそれよりも先に、ちゃんと仕上げをした言葉を継《つ》いだ。
「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」
 保吉の信ずるところによれば、そう云った時の彼の声は天使よりも優しいくらいだった。

     西洋人

 この学校へは西洋人が二人、会話や英作文を教えに来ていた。一人はタウンゼンドと云う英吉利《イギリス》人、もう一人はスタアレットと云う亜米利加《アメリカ》人だった。
 タウンゼンド氏は頭の禿《は》げた、日本語の旨い好々爺《こうこうや》だった。由来西洋人の教師《きょうし》と云うものはいかなる俗物にも関《かかわ》らずシェクスピイアとかゲエテとかを喋々《ちょうちょう》してやまないものである。しかし幸いにタウンゼンド氏は文芸の文の字もわかったとは云わない。いつかウワアズワアスの話が出たら、「詩と云うものは全然わからぬ。ウワアズワアスなどもどこが好《よ》いのだろう」と云った。
 保吉《やすきち》はこのタウンゼンド氏と同じ避暑地《ひしょち》に住んでいたから、学校の往復にも同じ汽車に乗った。汽車はかれこれ三十分ばかりかかる。二人はその汽車の中にグラスゴオのパイプを啣《くわ》えながら、煙草《たばこ》の話だの学校の話だの幽霊《ゆうれい》の話だのを交換した。セオソフィストたるタウンゼンド氏はハムレットに興味を持たないにしても、ハムレットの親父《おやじ》の幽霊には興味を持っていたからである。しかし魔術とか錬金術《れんきんじゅつ》とか、occu
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