変遷その他
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)万法《ばんぽふ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)従来|衣魚《しみ》と
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十四年八月)
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変遷
万法《ばんぽふ》の流転《るてん》を信ずる僕と雖《いへど》も、目前《もくぜん》に世態《せたい》の変遷《へんせん》を見ては多少の感慨なきを得ない。現にいつか垣の外に「茄子《なすび》の苗《なへ》や胡瓜《きうり》の苗、……ヂギタリスの苗や高山植物の苗」と言ふ苗売りの声を聞いた時にはしみじみ時好《じかう》の移つたことを感じた。が、更に驚いたのはこの頃ふと架上《かじやう》の書を縁側の日の光に曝《さら》した時である。僕は従来|衣魚《しみ》と言ふ虫は決して和本や唐本《たうほん》以外に食はぬものと信じてゐた。けれども千九百二十五年の衣魚《しみ》は舶来本の背などにも穴をあけてゐる。僕はこの衣魚の跡を眺めた時に進化論を思ひ、ラマルクを思ひ、日本文化の上に起つた維新《ゐしん》以後六十年の変遷を思つた。三十世紀の衣魚はことによると、樟脳《しやうなう》やナフタリンも食ふかも知れない。
或抗議
「文壇に幅を利《き》かせてゐるのはやはり小説や戯曲である。短歌や俳句はいつになつても畢《つひ》に幅を利かせることは出来ない。」――僕の見聞《けんぶん》する所によれば、誰でもかう言ふことを信じてゐる。「誰でも」は勿論小説家や戯曲家ばかりを指《さ》すのではない。歌人や俳人自身さへ大抵《たいてい》かう信じるか、或はかう世間一般に信じてゐられると信じてゐる。が、堂堂たる批評家たちの短歌や俳句を批評するのを見ると、不思議にも決して威張《ゐば》つたことはない。いづれも「わたしは素人《しろうと》であるが」などと謙抑《けんよく》の言を並べてゐる。謙抑の言を並べてゐるのはもとより見上げた心がけである。しかしかう言ふ批評家たちの小説や戯曲を批評するや、決して「素人《しろうと》であるが」とは言はない。恰《あたか》も父母《ふぼ》未生前《みしやうぜん》より小説や戯曲に通じてゐたやうに滔滔《たうたう》、聒聒《くわつくわつ》、絮絮《じよじよ》、綿綿《めんめん》と不幸なる僕等に教《おしへ》を垂《た》れるのである。すると
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