文壇に幅を利《き》かせてゐるのは必ずしも小説や戯曲ではない。寧《むし》ろ人麻呂《ひとまろ》以来の短歌であり、芭蕉《ばせを》以来の俳句である。それを小説や戯曲ばかり幅を利《き》かせてゐるやうに誣《し》ひられるのは少くとも善良なる僕等には甚だ迷惑と言はなければならぬ。のみならず短歌や俳句ばかりいつまでも幅を利かせてゐるのは勿論不公平を極めてゐる。サント・ブウヴも或は高きにゐてユウゴオやバルザツクを批評したかも知れない。が、ミユツセを批評する時にも格別「わたしは素人《しろうと》であるが」と帽子を脱がなかつたのは確かである。堂堂たる日本の批評家たちもちつとは僕等に同情して横暴なる歌人や俳人の上に敢然と大鉄槌《だいてつつゐ》を下《くだ》すが好《よ》い。若し又それは出来ないと言ふならば、――僕は当然の権利としてかう批評家たちに要求しなければならぬ。――僕等の作品を批評する時にも一応は帽子《ばうし》を脱いだ上、歌人や俳人に対するやうに「素人であるが」と断《ことわ》り給へ。

     艶福

「……自分の如きものにさへ、屡々《しばしば》手紙を寄せて交《かう》を求めた婦人が十指に余る。未《ま》だ御目にかかつた事はないが夢に見ましたと云ふのがある。御兄様《おにいさま》と呼ぶ事を御許し下さいませと云ふのがある。写真を呉れと云ふのがある。何か肌《はだ》に着けた物を呉れと云ふのがある。使ひ古した手巾《ハンケチ》を呉れれば処女として最も清く尊きものを差上げますと云ふのもあつた。何《なん》たる清き交際であらう。……」
 これは水上滝太郎《みなかみたきたらう》君の「友はえらぶべし」の中の一節である。僕はこの一節を読んだ時に少しも掛値《かけね》なしに瞠目《だうもく》した。水上君の小説は必ずしも天下の女性の読者を随喜《ずゐき》せしめるのに足るものではない。しかも猶《なほ》彼等の或ものは水上君を御兄様を称し、又彼等の或ものは水上君の写真など(!)を筐底《きやうてい》に秘めたがつてゐるのである。翻《ひるがへ》つて僕自身のことを考へると、――尤《もつと》も僕の小説は水上君の小説よりも下手《へた》かも知れない。が、少くとも女性の読者に多少の魅力《みりよく》のあることは決して「勤人《つとめにん》」や「海上日記」や「葡萄酒《ぶだうしゆ》」の後《あと》には落ちない筈である。しかし行年《ぎやうねん》二十五にして才人
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