便宜上もう一度繰り返せば、芸術上の理解の透徹した時には、模倣はもう殆ど模倣ではない。寧ろ自他の融合から自然と花の咲いた創造である。模倣の痕跡を尋ねれば、如何なる古今の作品と雖《いへど》も、全然新しいと云ふものはない。が、又独自性の地盤を尋ねれば、如何なる古今の作品と雖も、全然古いと云ふものはない。「正直者」は上に述べた通り、独歩モオパスサン組合の製品である。と云ふのは何も署名だけは独歩であると云ふのではない。全篇に独歩の独自性をにじませてゐると云ふのである。すると独歩の見た人生は必しもモオパスサンを模倣することに終始してゐた訳ではない。これはワイルド自身にしても、人生の芸術を模倣する程度を厳密に規定はしなかつた筈である。実際又自然や人生はワイルドのアフオリズムを応用すれば、甚だ不正確に複製した三色版と云はなければならぬ。就中銀座街頭の少女などは最も拙劣なる三色版である。
近代の日本の文芸は横に西洋を模倣しながら、竪《たて》には日本の土に根ざした独自性の表現に志してゐる。苟《いやし》くも日本に生を享けた限り、斎藤茂吉も亦この例に洩れない。いや、茂吉はこの両面を最高度に具へた歌人であ
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