べた通り、深い理解に根ざしてゐる。況《いはん》やこの理解の透徹した時は、模倣はもう殆《ほとん》ど模倣ではない。たとへば今は古典になつた国木田独歩の「正直者」はモオパスサンの模倣である。が、「正直者」を模倣と呼ぶのはナポレオンの事業をアレキサンダアの事業の模倣と呼ぶのと変りはない。成程独歩は人生をモオパスサンのやうに見たであらう。しかしそれは独歩自身もモオパスサンになつてゐた為である。或は独歩自身の中に微妙なる独歩モオパスサン組合の成立してゐた為である。更に又警句を弄すれば、人生も亦モオパスサンを模倣してゐた為と云はれぬことはない。「人生は芸術を模倣す」と云ふ、名高いワイルドのアフオリズムはこの間の消息を語るものである。人生?――自然でも勿論差支へない。ワイルドは印象派の生まれぬ前にはロンドンの市街に立ち罩《こ》める、美しい鳶色《とびいろ》の霧などは存在しなかつたと云つてゐる。青あをと燃え輝いた糸杉もやはりゴツホの生まれぬ前には存在しなかつたのに違ひない。少くとも水水しい耳隠しのかげに薄赤い頬を光らせた少女の銀座通りを歩み出したのは確かにルノアルの生まれた後、――つひ近頃の出来事である。
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