望あり。此頃家君の友人、和洲郡山《わしうこほりやま》柳沢権太夫《やなぎざはごんだいふ》(即ち柳里恭《りうりきよう》である。)毎々|客居《かくきよ》す。因つて友人に托し、柳沢の画を学ぶ。(中略)十二歳の頃、長崎の僧|鶴亭《かくてい》と云ふ人あり。浪華に客居す。長崎神代甚左衛門(即ち熊斐《ゆうひ》である。)の門人なり。始めて畿内に南蘋流《なんびんりう》の弘まりたるは此の人に始まれり。余従つて花鳥を学び、池野秋平(即ち大雅である。)に従つて山水を学ぶ。」
「余十一歳の比《ころ》、親族児玉氏片山忠蔵(即ち北海である。)の門人たるを以て、余を引いて名字を乞ふ。片山余が名を命じ、名|鵠《こう》字は千里とす。其の後片山氏京に住す。余十八九歳の頃片山再び浪華《なには》に下り、立売堀《いたちぼり》に住す。余従つて句読《くとう》を受く。四書六経史漢文選等を読むことを得たり。」
是等の数節の示してゐる通り、巽斎の学芸に志したのは弱冠に満たない時代であり、巽斎の師事した学者や画家も大半は当時の名流である。そればかりではない。南蛮臭い新知識に富んだ物産の学に傾倒したのは勿論、一たび「明朝紫硯」を見るや、忽ち長
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