宿るやうに、巽斎の精神も子供の時から逞しい力を具へてゐた。其処へ幸福なるブウルヂヨアの家庭は教養の機会を与へるのに殆ど何ものをも吝《をし》まなかつた。今試みに巽斎自身のその間の消息をもの語つた伝記の数節を抄記すれば、――
「余幼少より生質軟弱にあり。保育を専とす。家君余を憫んで草木花樹を植うることを許す。親族に薬舗《やくほ》の者ありて物産の学あることを話し、稲若水《たうじやくすゐ》、松岡玄達《まつをかげんたつ》あることを聞けり。十二三歳の頃京都に松岡門人|津島恒之進《つしまつねのしん》、物産に委《くは》しきことを知り、此の頃家君の京遊に従つて、始めて津島先生に謁《えつ》し、草木の事を聞くこと一回。翌年余十五歳、家君の喪にあひ、十六歳の春余家母に従つて京に入り、再び津島氏に従学し、門人と為ることを得たり。」
「余五六歳の頃より、頗る画事を解き、我郷の大岡春卜《おほをかしゆんぼく》、狩野流の画に名あり。因《よ》つて従つて学ぶ。春卜嘗て芥子園画伝《かいしゑんぐわでん》に傚《なら》ひ、明人《みんじん》の画を模写し、「明朝紫硯《みんてうしけん》」と云ふ彩色の絵本を上木す。余之れを見て始めて唐画の望あり。此頃家君の友人、和洲郡山《わしうこほりやま》柳沢権太夫《やなぎざはごんだいふ》(即ち柳里恭《りうりきよう》である。)毎々|客居《かくきよ》す。因つて友人に托し、柳沢の画を学ぶ。(中略)十二歳の頃、長崎の僧|鶴亭《かくてい》と云ふ人あり。浪華に客居す。長崎神代甚左衛門(即ち熊斐《ゆうひ》である。)の門人なり。始めて畿内に南蘋流《なんびんりう》の弘まりたるは此の人に始まれり。余従つて花鳥を学び、池野秋平(即ち大雅である。)に従つて山水を学ぶ。」
「余十一歳の比《ころ》、親族児玉氏片山忠蔵(即ち北海である。)の門人たるを以て、余を引いて名字を乞ふ。片山余が名を命じ、名|鵠《こう》字は千里とす。其の後片山氏京に住す。余十八九歳の頃片山再び浪華《なには》に下り、立売堀《いたちぼり》に住す。余従つて句読《くとう》を受く。四書六経史漢文選等を読むことを得たり。」
是等の数節の示してゐる通り、巽斎の学芸に志したのは弱冠に満たない時代であり、巽斎の師事した学者や画家も大半は当時の名流である。そればかりではない。南蛮臭い新知識に富んだ物産の学に傾倒したのは勿論、一たび「明朝紫硯」を見るや、忽ち長江の蘆荻《ろてき》の間に生じた南宋派の画法に心酔したのも少年らしい情熱を語つてゐる。
この聡明なる造り酒屋の息子はかう云ふ幸福なる境遇のもとに徐ろに自己を完成した。その自己は大雅のやうに純乎《じゆんこ》として純なる芸術家ではない。寧ろ人に師たるの芸十六に及んだと伝へられる柳里恭に近いディレツタントである。が、柳里恭のディレツタンティズムは超凡の才力を負うてゐると共に、デカダンスの臭味もない訳ではない。少くとも随筆「独寝《ひとりね》」の中に男子一生の学問をも傾城の湯巻に換へんと言つた通人の面目のあることだけは兎も角も事実と言はなければならぬ。しかし巽斎のディレツタンティズムは変通自在の妙のない代りに、如何にも好箇の読書人らしい清目なる風格を具へてゐる。柳里恭は乞食の茶を飲んだり、馬上に瞽女《ごぜ》の三味線を弾いたり、あらゆる奇行を恣《ほしいまま》にした。或は恣にしたと伝へられてゐる。けれども巽斎に関する伝説は少しも常軌を逸してゐない。まづ世人を驚かしたと云ふのも、「江戸の筆工|鳳池堂《ほうちだう》のあるじ浪華に遊びしところ、蒹葭堂を訪ひしに、しばし待たせ給はれ、その中の慰みにとて一帖を出せり。いかなるものぞと開き見れば、江戸の筆工の家号をしるしたる名紙といふものを一枚の遺漏もなく集めたりしとぞ」(山崎美成《やまざきびせい》)と云ふ程度の逸話ばかりである。尤もこの逸話にしても、「その好事の勝れたる想像すべし」と云ふより外に考へられない次第ではない。巽斎は明らかに鳳池堂の主人へ無言の一拶を与へてゐる。更に無造作に言ひ換へれば、アルバムに満載した筆屋の名刺を「どうだ?」とばかりに突きつけてゐる。その辺は勿論辛辣なる機鋒を露はしてゐるのに違ひない。しかし柳里恭に比べれば、――殊に「独寝」の作者たる柳里恭に比べれば、はるかに温乎《をんこ》たる長者の風を示してゐることは確かである。
「余幼年より絶えて知らざること、古楽、管絃、猿楽、俗謡、碁棋《ごき》、諸勝負、妓館、声色の遊、総《すべ》て其の趣を得ず。況や少年より好事多端《かうずたたん》暇なき故なり。勝負を好まざるは余|頤養《いやう》の意あればなり。」
巽斎の所謂娯楽なるものに少しも興味のなかつたことはこの一節の示す通りである。
「余が嗜好の事専ら奇書にあり。名物多識の学、其他書画碑帖の事、余微力と雖も数年来百費を省き収る所書
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