。人間も悠久なる六百万年の間には著しい進歩をするかも知れない。少くともその可能性を信ずることは痴人の談とばかりも云はれぬであらう。もしこの確信を事実とすれば、人間の将来は我々の愛する岩見重太郎の手に落ちなければならぬ。牢を破り狒を殺した超人の手に落ちなければならぬ。
僕の岩見重太郎を知つたのは本所御竹倉の貸本屋である。いや、岩見重太郎ばかりではない。羽賀井一心斎《はがゐいつしんさい》を知つたのも、妲妃《だつき》のお百を知つたのも、国定忠次を知つたのも、祐天上人《いうてんしやうにん》を知つたのも、八百屋《やほや》お七を知つたのも、髪結新三《かみゆひしんざ》を知つたのも、原田甲斐を知つたのも、佐野次郎左衛門を知つたのも、――閭巷無名《りよこうむめい》の天才の造つた伝説的人物を知つたのは悉《ことごと》くこの貸本屋である。僕はかう云ふ間にも、夏の西日のさしこんだ、狭苦しい店を忘れることは出来ぬ。軒先には硝子《がらす》の風鈴《ふうりん》が一つ、だらりと短尺をぶら下げてゐる。それから壁には何百とも知れぬ講談の速記本がつまつてゐる。最後に古い葭戸《よしど》のかげには梅干を貼つた婆さんが一人、内職の花簪《はなかんざし》を拵《こしら》へてゐる。――ああ、僕はあの貸本屋に何と云ふ懐かしさを感じるのであらう。僕に文芸を教へたものは大学でもなければ図書館でもない。正にあの蕭条《せうでう》たる貸本屋である。僕は其処に並んでゐた本から、恐らくは一生受用しても尽きることを知らぬ教訓を学んだ。超人と称するアナアキストの尊厳を学んだのもその一つである。成程超人と言ふ言葉はニイチエの本を読んだ後、やつと僕の語彙になつたかも知れない。しかし超人そのものは――大いなる岩見重太郎よ、伝家の宝刀を腰にしたまま、天下を睨んでゐる君の姿は夙《つと》に僕の幼な心に、敢然と山から下つて来たツアラトストラの大業を教へてくれたのである。あの貸本屋はとうの昔に影も形も失つたであらう。が、岩見重太郎は今日もなほ僕の中に溌溂《はつらつ》と命を保つてゐる。いつも人生の十字街頭に悠々と扇を使ひながら。
木村巽斎
今年の春、僕は丁度一年ぶりに京都の博物館を見物した。が、生憎その時は元来酸過多の胃嚢《ゐぶくろ》が一層異状を呈してゐた。韶を聞いて肉味を忘れるのは聖人のみに出来る離れ業である。僕は駱駝《らくだ》のシヤツの下に一匹の蚤でも感じたが最後、たとひ坂田藤十郎の演ずる「藤十郎の恋」を見せられたにしろ、到底安閑と舞台の上へ目などを注いでゐる余裕はない。況《いはん》や胃嚢を押し浸した酸はあらゆる享楽を不可能にしてゐた。のみならず当時の陳列品には余り傑作も見えなかつたらしい。僕はまづ仏画から、陶器、仏像、古墨蹟と順々に悪作を発見して行つた。殊に※[#「龍/共」、第3水準1−94−87]半千《きようはんせん》か何かの掛物に太い字のべたべた並んでゐるのは殆ど我々胃病患者に自殺の誘惑を与へる為、筆を揮《ふる》つたものとしか思はれなかつた。
その内に僕の迷ひこんだのは南画ばかりぶら下げた陳列室である。この室も一体にくだらなかつた。第一に鉄翁の山巒は軽石のやうに垢じみてゐる。第二に藤本鉄石《ふぢもとてつせき》の樹木は錆ナイフのやうに殺気立つてゐる。第三に浦上玉堂《うらがみぎよくだう》の瀑布《ばくふ》は琉球泡盛《りうきうあわもり》のやうに煮え返つてゐる。第四に――兎に角南画と云ふ南画は大抵僕の神経を苛《いら》いらさせるものばかりだつた。僕は顔をしかめながら、大きい硝子戸棚の並んだ中を殉教者のやうに歩いて行つた。すると僕の目の前へ奇蹟よりも卒然と現れたのは小さい紙本の山水である。この山水は一見した所、筆墨縦横などと云ふ趣はない。寧ろ何処か素人じみた罷軟《ひなん》の態さへ帯びてゐる。其処だけ切り離して考へて見れば、玉堂鉄翁は姑《しばら》く問はず、たとへば小室翠雲《こむろすゐうん》にも数歩を譲らざるを得ないかも知れない。しかし山石の苔に青み、山杏《さんぎやう》の花を発した景色は眇《べう》たる小室翠雲は勿論、玉堂鉄翁も知らなかつたほど、如何にも駘蕩と出来上つてゐる。僕はこの山水を眺めた時、忽《たちま》ち厚い硝子越しに脈々たる春風の伝はるのを感じ、更に又胃嚢に漲つた酸の大潮のやうに干上るのを感じた。木村巽斎《きむらそんさい》、通称は太吉、堂を蒹葭《けんか》と呼んだ大阪町人は実にこの山水の素人作者である。
巽斎は名は孔恭《こうきよう》、字《あざな》は世粛《せいしゆく》と云ひ、大阪の堀江に住んでゐた造り酒屋の息子である。巽斎自身「余幼年より生質軟弱にあり。保育を専《もつぱら》とす」と言つてゐるのを見ると、兎に角体は脾弱《ひよわ》かつたらしい。が、少数の例外を除けば、大抵健全なる精神は不健全なる肉体に
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