ね》を凝り成して以来、我々の真に愛するものは常にこの強勇の持ち主である。常にこの善悪の観念を脚下に蹂躙《じうりん》する豪傑である。我々の心は未だ嘗て罪悪の意識を逃れたことはない。青丹《あをに》よし奈良の都の市民は卵を食ふことを罪悪とした。と思へば現代の東京の市民は卵を食はないことを罪悪としてゐる。これは勿論卵ばかりではない。「我《が》」に対する信仰の薄い、永久に臆病なる我々は我々の中にある自然にさへ罪悪の意識を抱いてゐる。が、豪傑は我々のやうに罪悪の意識に煩はされない。実践倫理の教科書はもとより、神明仏陀の照覧さへ平然と一笑に附してしまふ。一笑に附してしまふのは「我」に対する信仰のをのづから強い結果である。たとへば神代の豪傑たる素戔嗚《すさのを》の尊に徴すれば、尊は正に千位置戸《ちくらおきど》の刑罰を受けたのに相違ない。しかし刑罰を受けたにしろ、罪悪の意識は寸毫《すんがう》も尊の心を煩はさなかつた。さもなければ尊は高天《たかま》が原《はら》の外に刑余の姿を現はすが早いか、あのやうに恬然《てんぜん》と保食《うけもち》の神を斬り殺す勇気はなかつたであらう。我々はかう云ふ旺盛なる「我」に我々の心を暖める生命の炎を感ずるのである。或は我々の到達せんとする超人の面輪《おもわ》を感ずるのである。
 まことに我々は熱烈に岩見重太郎を愛してゐる。のみならず愛するのに不思議はない。しかしかう云ふ我々の愛を唯所謂強者に対する愛とばかり解釈するならば、それは我々を誣《し》ひるものである。如何にも何人かの政治家や富豪は善悪の彼岸に立つてゐるかも知れない。が、彼岸に立つてゐることは常に彼等の秘密である。おまけに又彼等はその秘密に対する罪悪の意識を逃れたことはない。秘密は必しも咎《とが》めるに足らぬ。現に古来の豪傑も家畜に似た我々を駆使する為には屡々仮面を用ひたやうである。けれども罪悪の意識に煩はされるのは明らかに豪傑の所業ではない。彼等は強いと云ふよりも寧ろ病的なる欲望に支配されるほど弱いのである。もし嘘だと思ふならば、試みに彼等を三年ばかり監獄の中に住ませて見るが好い。彼等は必ずニイチエの代りに親鸞上人を発見するであらう。我々の愛する豪傑は最も彼等に遠いものである。もし彼等に比べるとすれば、活動写真の豪傑さへ数等超人の面影を具へてゐると云はなければならぬ。現に我々は彼等よりも活動写真の豪傑を愛してゐる。ハリケエン・ハツチの近代的富豪にはり倒される光景は見るに堪へない。しかし近代的富豪のハリケエン・ハツチに、――ハリケエン・ハツチもはり倒すほど、臆病なる彼等の一団に興味を持つかどうかは疑問である。
 岩見重太郎の武勇伝の我々に意味のあることは既に述べた通りである。が、重太郎の冒険はいづれも末世の我々に同じ興味を与へる訳ではない。その最も興味のあるものは牢破りと狒退治との二つである。一国の牢獄を破るのは国法を破るのと変りはない。狒も単に狒と云ふよりは、年々|人身御供《ひとみごくう》を受けてゐた、牛頭明神《ごづみやうじん》と称する妖神である。すると重太郎は牢破りと共に人間の法律を蹂躙し、更に又次の狒退治と共に神と云ふ偶像の法律をも蹂躙したと云はなければならぬ。これは重太郎一人に限らず、上は素戔嗚の尊から下はミカエル・バクウニンに至る豪傑の生涯を象徴するものである。いや、更に一歩を進めれば、あらゆる単行独歩の人の思想的生涯をも象徴するものである。彼等は皆人間の虚偽と神の虚偽とを蹂躙して来た。将来も亦あらゆる虚偽を蹂躙することを辞せぬであらう。重太郎の退治した狒の子孫は未だに人身御供を貪《むさぼ》つてゐる。牢獄も、――牢獄は市が谷にあるばかりではない。囚人たることにさへ気のつかない、新時代の服装をした囚人の夫婦は絡繹《らくえき》と銀座通りを歩いてゐる。
 人間の進歩は遅いものである。或は蝸牛《くわぎう》の歩みよりも更に遅いものかも知れない。が、如何に遅いにもせよ、アナトオル・フランスの云つたやうに、「徐《おもむ》ろに賢人の夢みた跡を実現する」ことは事実である。いにしへの支那の賢人は車裂の刑を眺めたり、牛鬼蛇神《ぎうきだじん》の像を眺めたりしながら、尭舜《げうしゆん》の治世を夢みてゐた。(将来を過去に求めるのは常に我々のする所である。我々の心の眼なるものはお伽噺の蛙《かはづ》の眼と多少同一に出来てゐるらしい。)尭舜の治世は今日もなほ雲煙のかなたに横はつてゐる。しかし車はいにしへのやうに車裂の刑には使はれてゐない。牛鬼蛇神の像なども骨董屋の店か博物館に陳列されてゐるばかりである。よし又かう云ふ変化位を進歩と呼ぶことは出来ないにしろ、人間の文明は有史以来|僅々《きんきん》数千年を閲したのに過ぎない。けれども地球の氷雪の下に人間の文明を葬るのは六百万年の後ださうである
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