に重太郎は後藤子爵よりも一層我々の情意の上に大いなる影響を及ぼし易い。我々は天の橋立に大敵と戦ふ重太郎には衷心《ちうしん》の不安を禁ずることは出来ぬ。けれども衆議院の演壇に大敵と戦ふ後藤子爵には至極に冷淡に構へられるのである。
 岩見重太郎の軽蔑出来ぬ所以はあらゆる架空の人物の軽蔑出来ぬ所以である。架空の人物と云ふ意味は伝説的人物を指すばかりではない。俗に芸術家と称《とな》へられる近代的伝説製造業者の造つた架空の人物をも加へるのである。カイゼル・ウイルヘルムを軽蔑するのは好い。が、一|穂《すゐ》のともし火のもとに錬金の書を読むフアウストを軽蔑するのは誤りである。フアウストの書いた借金証文などは何処の図書館にもあつたことはない。しかしフアウストは今日もなほベルリンのカフエの一隅に麦酒《ビール》を飲んでゐるのである。ロイド・ヂヨオヂを軽蔑するのは好い。が、三人の妖婆の前に運命を尋ねるマクベスを軽蔑するのは誤りである。マクベスの帯びた短刀などは何処の博物館にもあつたことはない。しかしマクベスは相不変ロンドンのクラブの一室に葉巻を薫《く》ゆらせてゐるのである。彼等は過去の人物は勿論、現在の人物よりも油断はならぬ。いや彼等は彼等を造つた天才よりも長命である。耶蘇《ヤソ》紀元三千年の欧羅巴《ヨーロツパ》はイブセンの大名をも忘却するであらう。けれども勇敢なるピイア・ギユントはやはり黎明の峡湾を見下してゐるのに違ひない。現に古怪なる寒山拾得は薄暮の山巒《さんらん》をさまよつてゐる。が、彼等を造つた天才は――豊干《ぶかん》の乗つた虎の足跡も天台山の落葉の中にはとうの昔に消えてゐるであらう。
 僕は上海《シヤンハイ》のフランス町に章太炎《しやうたいえん》先生を訪問した時、剥製の鰐《わに》をぶら下げた書斎に先生と日支の関係を論じた。その時先生の云つた言葉は未だに僕の耳に鳴り渡つてゐる。――「予の最も嫌悪する日本人は鬼が島を征伐した桃太郎である。桃太郎を愛する日本国民にも多少の反感を抱かざるを得ない。」先生はまことに賢人である。僕は度たび外国人の山県公爵を嘲笑し、葛飾北斎を賞揚し、渋沢子爵を罵倒するのを聞いた。しかしまだ如何なる日本通もわが章太炎先生のやうに、桃から生れた桃太郎へ一|矢《し》を加へるのを聞いたことはない。のみならずこの先生の一矢はあらゆる日本通の雄弁よりもはるかに真理を含んでゐる。桃太郎もやはり長命であらう。もし長命であるとすれば、暮色蒼茫たる鬼が島の渚に寂しい鬼の五六匹、隠れ蓑や隠れ笠のあつた祖国の昔を嘆ずるものも、――しかし僕は日本政府の植民政策を論ずる前に岩見重太郎を論じなければならぬ。
 前に述べた所を繰り返せば、岩見重太郎は古人はもとより、今人よりも生命に富んだ、軽蔑すべからざる人間である。成程豊臣秀吉は岩見重太郎に比べても、少しも遜色《そんしよく》はないかも知れない。けれどもそれは明らかに絵本太閤記の主人公たる伝説的人物の力である。さもなければ同じ歴史の舞台に大芝居を打つた徳川家康もやはり豊臣秀吉のやうに光彩を放つてゐなければならぬ。且又今人も無邪気なる英雄崇拝の的になるものは大抵彼等の頭の上に架空の円光を頂いてゐる。広い世の中には古往今来、かう云ふ円光の製造業者も少からぬことは云ふを待たない。たとへばロマン・ロオラン伝を書いた、善良なるステフアン・ツワイグは正に彼等を代表するものである。
 僕の岩見重太郎に軽蔑を感ずるのは事実である。重太郎も国粋会の壮士のやうに思索などは余りしなかつたらしい。たとへば可憐なる妹お辻の牢内に命を落した後、やつと破牢にとりかかつたり、妙に夢知らせを信用したり、大事の讐打《かたきう》ちを控へてゐる癖に、狒退治《ひひたいぢ》や大蛇退治《おろちたいぢ》に力瘤を入れたり、いつも無分別の真似ばかりしてゐる。その点は菊池寛の為に翻弄されるのもやむを得ない。けれども岩見重太郎は如何なる悪徳をも償ふ位、大いなる美徳を持ち合せてゐる。いや、必しも美徳ではない。寧ろ善悪の彼岸に立つた唯一無二の特色である。岩見重太郎は人間以上に強い。(勿論重太郎の同類たる一群の豪傑は例外である。)重太郎の憤怒《ふんぬ》を発するや、太い牢格子も苧殻《をがら》のやうに忽ち二つにへし折れてしまふ。狒や大蛇も一撃のもとにあへない最期を遂げる外はない。千曳《ちびき》の大岩を転がすなどは朝飯前の仕事である。由良が浜の沖の海賊は千人ばかり一時に俘《とりこ》になつた。天の橋立の讐打ちの時には二千五百人の大軍を斬り崩してゐる。兎に角重太郎の強いことは天下無敵と云はなければならぬ。かう云ふ強勇はそれ自身我々末世の衆生の心に大歓喜を与へる特色である。
 小心なる精神的宦官は何とでも非難を加へるが好い。天つ神の鋒《ほこ》から滴る潮の大和島根《やまとしま
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