溥)」、第3水準1−89−18]《はうはく》する茂吉の心熱の凄じさを感ぜざるを得ないのは事実である。同時に又さう云ふ熔鉱炉の底に火花を放つた西洋を感ぜざるを得ないのも事実である。
 僕は上にかう述べた。「近代の日本の文芸は横に西洋を模倣しながら、竪には日本の土に根ざした独自性の表現に志してゐる。」僕は又上にかう述べた。「茂吉はこの竪横の両面を最高度に具へた歌人である。」茂吉よりも秀歌の多い歌人も広い天下にはあることであらう。しかし「赤光」の作者のやうに、近代の日本の文芸に対する、――少くとも僕の命を托した同時代の日本の文芸に対する象徴的な地位に立つた歌人の一人もゐないことは確かである。歌人?――何も歌人に限つたことではない。二三の例外を除きさへすれば、あらゆる芸術の士の中にも、茂吉ほど時代を象徴したものは一人もゐなかつたと云はなければならぬ。これは単に大歌人たるよりも、もう少し壮大なる何ものかである。もう少し広い人生を震蕩《しんたう》するに足る何ものかである。僕の茂吉を好んだのも畢竟《ひつきやう》この故ではなかつたのであらうか?
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あが母の吾《あ》を生ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや
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 菲才《ひさい》なる僕も時々は僕を生んだ母の力を、――近代の日本の「うらわかきかなしき力」を感じてゐる。僕の歌人たる斎藤茂吉に芸術上の導者を発見したのは少しも僕自身には偶然ではない。

       岩見重太郎

 岩見重太郎と云ふ豪傑は後《のち》に薄田隼人《すすきだはやと》の正兼相《しやうかねすけ》と名乗つたさうである。尤もこれは講談師以外に保証する学者もない所を見ると、或は事実でないのかも知れない。しかし事実ではないにもせよ、岩見重太郎を軽蔑するのは甚だ軽重《けいちよう》を失したものである。
 第一に岩見重太郎は歴史に実在した人物よりもより生命に富んだ人間である。その証拠には同時代の人物――たとへば大阪五奉行の一人、長束大蔵《ながつかおほくら》の少輔正家《せうゆうまさいへ》を岩見重太郎と比べて見るが好い。武者修業の出立《いでた》ちをした重太郎の姿はありありと眼の前に浮んで来る。が、正家は大男か小男か、それさへも我々にははつきりしない。且又かういふ関係上、重太郎は正家に十倍するほど、我々の感情を支配してゐる。我々は新聞紙の一隅に「長束正家儀、永々病気の処、薬石《やくせき》効《かう》無く」と云ふ広告を見ても、格別気の毒とは思ひさうもない。しかし重太郎の長逝を報ずる号外か何か出たとすれば、戯曲「岩見重太郎」の中にこの豪傑を翻弄した、無情なる菊池寛と雖も、憮然《ぶぜん》たらざるを得ないことであらう。のみならず重太郎は感情以上に我々の意志をも支配してゐる。戦《いくさ》ごつこをする小学生の重太郎を真似るのは云ふを待たない。僕さへ論戦する時などには忽《たちま》ち大蛇《おろち》を退治する重太郎の意気ごみになりさうである。
 第二に岩見重太郎は現代の空気を呼吸してゐる人物――たとへば後藤子爵よりもより生命に富んだ人間である。成程子爵は日本の生んだ政治的豪傑の一人かも知れない。が、如何なる豪傑にもせよ、子爵後藤新平なるものは恰幅《かつぷく》の好い、鼻眼鏡をかけた、時々哄然と笑ひ声を発する、――兎に角或制限の中にちやんとをさまつてゐる人物である。甲の見た子爵は乙の見た子爵よりも眼が一つ多かつたなどと云ふことはない。それだけに頗《すこぶ》る正確である。同時に又頗る窮屈である。もし甲は象の体重を理想的の体重としてゐるならば、象よりも体重の軽い子爵は当然甲の要求に十分の満足を与へることは出来ぬ。もし又乙は麒麟《きりん》の身長を理想的の身長としてゐるならば、麒麟よりも身長の短かい子爵はやはり乙の不賛成を覚悟しなければならぬ筈である。けれども岩見重太郎は、――岩見重太郎もをのづから武者修業の出立をした豪傑と云ふ制限を受けてゐないことはない。が、この制限はゴム紐のやうに伸びたり縮んだりするものである。甲乙二人の見る重太郎は必しも同一と云ふ訳には行かぬ。それだけに頗る不正確である。同時に又頗る自由である。象の体重を※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]する甲は必ず重太郎の体重の象につり合ふことを承認するであらう。麒麟の身長を謳歌する乙もやはり重太郎の身長の麒麟にひとしいことを発見する筈である。これは肉体上の制限ばかりではない。精神上の制限でも同じことがある。たとへば勇気と云ふ美徳にしても、後藤子爵は我々と共にどの位勇士になり得るかを一生の問題としなければならぬ。しかし天下の勇士なるものはどの位重太郎になり得るかを一生の問題にしてゐるのである。この故
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