籍に不足なし。過分と云ふべし。其の外収蔵の物、本邦古人書画、近代儒家文人詩文、唐山真蹟書画、本邦諸国地図、唐山蛮方地図、草木金石珠玉点介鳥獣、古銭古器物、唐山器物、蛮方異産の類ありと雖も、皆考索の用とす。他の艶飾の比にあらず。」
巽斎は是等のコレクシヨンを愛し、蒹葭堂を訪れる遠来の客に是等のコレクシヨンを示すことを愛した。いや、コレクシヨンと云ふよりも寧ろ宛然《ゑんぜん》たる博物館である。年少の友だつた田能村竹田《たのむらちくでん》の、「収蔵せる法書、名画、金石、彝鼎《いてい》、及び夷蛮《いばん》より出づる所の異物奇品|棟宇《とうう》に充積す」と言つたのも必しも誇張ではなかつたであらう。巽斎は是等のコレクシヨンを「皆考索の用とす」と言つた。唐山蛮方の地図の中には欧羅巴《ヨーロツパ》亜米利加《アメリカ》の大陸もはるかに横はつてゐた筈である。いや、蛮方異産の類の中には更紗だの、銅版画だの、虫眼鏡だの、「ダラアカ」と云ふ龍の子のアルコオル漬だの、或は又クレオパトラの金髪だのも(勿論これは贋物である)交つてゐたのに違ひない。是等のコレクシヨンを「考索した、」この聡明なるディレツタントは不可思議なる文明の種々相の前に、どう云ふ感慨を催したであらうか? 少くとも世界の大の前にどう云ふ夢を夢みたであらうか?
「京子《けいし》浪華《なには》の地《ち》、古《いにしへ》より芸園に名高きもの輩出し、海内《かいだい》に聞ゆるものありといへども、その該博精通、蒹葭堂の如きもの少し。(中略)曾《かつ》て長崎に遊歴せしところ、唐山の風俗を問ひこゝろみ、帰りて後常に黄檗山《わうばくさん》にいたり、大成禅師《だいじやうぜんし》に随ひ遊べることありしに、人ありて唐山の風俗を禅師に問ふものあり。禅師蒹葭堂をさして、この人よくこれを知れり。吾れ談を費すに及ばずといはれたりき。禅師はもと唐山の人にて、投化《とうげ》して黄檗山に住せしなり。」(山崎美成)
「この人よくこれを知れり。吾れ談を費すに及ばず」の言葉は賛辞かどうか疑問である。或は生死の一大事をも外に、多聞を愛するディレツタントへ一棒を加へたものだつたかも知れない。しかも一棒を加へられたにもせよ、如何に巽斎の支那風に精通してゐたかと云ふことは疑ひを容れない事実である。巽斎は云はゞ支那に関する最大の権威の一人だつた。支那の画を愛し、支那の文芸を愛し、支那の哲学を愛した時代のかう云ふ蒹葭堂主人の多識に声誉を酬いたのは当然である。果然海内の文人墨客は巽斎の大名の挙がると共に、続々とその門へ集まり出した。柴野栗山《しばのりつざん》、尾藤《びとう》二|洲《しう》、古賀精里、頼春水、桑山玉洲《くはやまぎよくしう》、釧雲泉《くしろうんせん》、立原翠軒《たちはらすゐけん》、野呂介石《のろかいせき》、田能村竹田等は悉その友人である。殊に田能村竹田は、………大いなる芸術家といふよりも寧ろ善い芸術家だつた竹田はこの老いたるディレツタントの前に最も美しい敬意を表した。「余|甫《はじ》めて冠して、江戸に東遊し、途に阪府を経、木世粛《もくせいしゆく》(即ち巽斎である。)を訪はんと欲す。偶々人あり、余を拉《らつ》して、将《まさ》に天王寺の浮屠《ふと》に登らんとす。曰、豊聡耳王《とよとみみのみこ》の創むる所にして、年を閲すること既に一千余、唯魯の霊光の巍然として独り存するのみならずと。余|肯《き》かず。遂に世粛を見る。明年西帰し、再び到れば、則ち世粛已に没し、浮屠も亦《また》梵滅《ぼんめつ》せり。」
巽斎はかう云ふ名声のうちに悠々と六十年の生涯を了した。この六十年の生涯は無邪気なる英雄崇拝者には或は平凡に見えるかも知れない。巽斎の後代に伝へたものは名高い蒹葭堂コレクシヨンを除けば、僅かに数巻の詩文集と数幀《すうたう》の山水とのあるばかりである。しかし大正の今日さへ、帝国大学図書館の蔵書を平然と灰燼《くわいじん》に化せしめた、恬淡無欲なる我等の祖国は勿論蒹葭堂コレクシヨンをも無残なる散佚《さんいつ》に任かせてしまつた。アルコオル漬のダラアカは何処へ行つたか? 大雅や柳里恭の画は何処へ行つたか? クレオパトラの金髪は、――そんなものはどうなつても差支ない。が、畢竟蒹葭堂主人は寥々《れうれう》たる著書と画との外に何も伝へなかつたと言はなければならぬ。
何も?――いや、必しも「何も」ではない。豊富なる蒹葭堂コレクシヨンは――殊にその万巻の蔵書は当代の学者や芸術家に大いなる幾多の先例を示した。是等の先例の彼等を鼓舞し、彼等を新世界へ飛躍せしめたのは丁度ロダンだのトルストイだの或は又セザンヌだのの我々を刺戟したのも同じことである。このペエトロン兼蒐集家たる木村巽斎の恩恵もやはり後代に伝へた遺産、――謹厳なる前人の批判によれば、最大の遺産に数へなければ
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