ならぬ。けれども冷酷に言ひ放せば、それは丸善株式会社の我々に与へた恩恵と五十歩百歩の間にあるものである。少くとも所謂趣味に富んだ富豪或は富豪の息子の我々に与へ得る恩恵と五十歩百歩の間にあるものである。僕はかう云ふ恩恵の前に感謝の意を表するのを辞するものではない。しかし唯その為にのみ蒹葭堂主人を賛美するのは――第一に天下のペエトロンなるものを己惚《うぬぼ》れさせるだけでも有害である!
 もう一度便宜上繰り返すと、巽斎の後代に伝へたものは僅かに数巻の詩文集と数幀の山水とのあるばかりである。もし蒹葭堂コレクシヨンの当代に与へた恩恵の外に、巽斎の真価を見出さうとすれば、どうしても是等の作品に――少くともちよつと前に挙げた一幀の春山図に立ち帰らなければならぬ。あの画中に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]する春はたとへば偉大なる大雅のやうに、造化を自家の鍋の中に溶した無上の甘露味《かんろみ》には富んでゐない。と云つて又蕪村のやうに、独絶の庖丁を天地に加へた俊爽の風のないことも確かである。が、少しも凡庸ではない。丁度大きい微笑に似た、うらうらと明るい何ものかはおのづから紙の上に溢れてゐる。僕はその何ものかの中に蒹葭堂主人の真面目を、――静かに人生を楽しんでゐるディレツタントの魂を発見した。たとひ蒹葭堂コレクシヨンは当代の学者や芸術家に寸毫《すんがう》の恩恵を与へなかつたとしても、そんなことは僕の問ふ所ではない。僕は唯このディレツタントに、――如何に落寞たる人生を享楽するかを知つてゐた、風流無双の大阪町人に親しみを感ぜずにはゐられないのである。
 我々はパスカルの言つたやうに、ものを考へる蘆である。が、実はそればかりではない。一面にはものを考へると共に、他面には又しつきりなしにものを感ずる蘆である。尤も感ずると断らないにもせよ、風にその葉をそよがせるのは風を感ずるのと似てゐるであらう。しかし我々のものを感ずるのは必しもそれほど機械的ではない。いや、黄昏《たそがれ》の微風の中に万里の貿易風を感ずることも案外多いことは確かである。たとへば一本の糸杉は微風よりも常人を動かさないかも知れない。けれども天才に燃えてゐたゴツホはその一本の糸杉にも凄まじい生命を感じたのである。この故に落寞たる人生を十分に享楽する為には、微妙にものを考へると共に、微妙にものを感じなけれ
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