那の哲学を愛した時代のかう云ふ蒹葭堂主人の多識に声誉を酬いたのは当然である。果然海内の文人墨客は巽斎の大名の挙がると共に、続々とその門へ集まり出した。柴野栗山《しばのりつざん》、尾藤《びとう》二|洲《しう》、古賀精里、頼春水、桑山玉洲《くはやまぎよくしう》、釧雲泉《くしろうんせん》、立原翠軒《たちはらすゐけん》、野呂介石《のろかいせき》、田能村竹田等は悉その友人である。殊に田能村竹田は、………大いなる芸術家といふよりも寧ろ善い芸術家だつた竹田はこの老いたるディレツタントの前に最も美しい敬意を表した。「余|甫《はじ》めて冠して、江戸に東遊し、途に阪府を経、木世粛《もくせいしゆく》(即ち巽斎である。)を訪はんと欲す。偶々人あり、余を拉《らつ》して、将《まさ》に天王寺の浮屠《ふと》に登らんとす。曰、豊聡耳王《とよとみみのみこ》の創むる所にして、年を閲すること既に一千余、唯魯の霊光の巍然として独り存するのみならずと。余|肯《き》かず。遂に世粛を見る。明年西帰し、再び到れば、則ち世粛已に没し、浮屠も亦《また》梵滅《ぼんめつ》せり。」
 巽斎はかう云ふ名声のうちに悠々と六十年の生涯を了した。この六十年の生涯は無邪気なる英雄崇拝者には或は平凡に見えるかも知れない。巽斎の後代に伝へたものは名高い蒹葭堂コレクシヨンを除けば、僅かに数巻の詩文集と数幀《すうたう》の山水とのあるばかりである。しかし大正の今日さへ、帝国大学図書館の蔵書を平然と灰燼《くわいじん》に化せしめた、恬淡無欲なる我等の祖国は勿論蒹葭堂コレクシヨンをも無残なる散佚《さんいつ》に任かせてしまつた。アルコオル漬のダラアカは何処へ行つたか? 大雅や柳里恭の画は何処へ行つたか? クレオパトラの金髪は、――そんなものはどうなつても差支ない。が、畢竟蒹葭堂主人は寥々《れうれう》たる著書と画との外に何も伝へなかつたと言はなければならぬ。
 何も?――いや、必しも「何も」ではない。豊富なる蒹葭堂コレクシヨンは――殊にその万巻の蔵書は当代の学者や芸術家に大いなる幾多の先例を示した。是等の先例の彼等を鼓舞し、彼等を新世界へ飛躍せしめたのは丁度ロダンだのトルストイだの或は又セザンヌだのの我々を刺戟したのも同じことである。このペエトロン兼蒐集家たる木村巽斎の恩恵もやはり後代に伝へた遺産、――謹厳なる前人の批判によれば、最大の遺産に数へなければ
前へ 次へ
全22ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング