げこ》に生まれたんなら、禁酒会へはいるのも可笑《おか》しいじゃないの? それでも御当人は大真面目《おおまじめ》に禁酒|演説《えんぜつ》なんぞをやっているんですって。
「もっとも候補者は一人残らず低能児《ていのうじ》ばかりって訣《わけ》でもないのよ。両親の一番気に入っている電燈会社の技師なんぞはとにかく教育のある青年らしいの。顔もちょっと見た所はクライスラアに似ているわね。この山本って人は感心に社会問題の研究をしているんですって。けれど芸術だの哲学だのには全然興味のない人なのよ。おまけに道楽《どうらく》は大弓《だいきゅう》と浪花節《なにわぶし》とだって云うんじゃないの? それでもさすがに浪花節だけは好《い》い趣味じゃないと思っていたんでしょう。あたしの前じゃ浪花節のなの字も云わずにすましていたの。ところがいつかあたしの蓄音機《ちくおんき》へガリ・クルチやカルソウをかけて聞かせたら、うっかり『虎丸《とらまる》はないんですか?』ってお里を露《あら》わしてしまったのよ。まだもっと可笑《おか》しいのはあたしの家《うち》の二階へ上《あが》ると、最勝寺《さいしょうじ》の塔が見えるんでしょう。そのまた塔の霞の中に九輪《くりん》だけ光らせているところは与謝野晶子《よさのあきこ》でも歌いそうなのよ。それを山本って人の遊びに来た時に『山本さん。塔が見えるでしょう?』って教えてやったら、『ああ、見えます。何メエトルくらいありますかなあ』って真面目《まじめ》に首をひねっているの。低能児《ていのうじ》じゃないって云ったけれども、芸術的にはまあ低能児だわね。
「そう云う点のわかっているのは文雄《ふみお》ってあたしの従兄《いとこ》なのよ。これは永井荷風《ながいかふう》だの谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》だのを読んでいるの。けれども少し話し合って見ると、やっぱり田舎《いなか》の文学通だけにどこか見当が違っているのね。たとえば「大菩薩峠《だいぼさつとうげ》」なんぞも一代の傑作だと思っているのよ。そりゃまだ好《い》いにしても、評判の遊蕩児《ゆうとうじ》と来ているんでしょう。そのために何でも父の話じゃ、禁治産《きんじさん》か何かになりそうなんですって。だから両親もあたしの従兄には候補者の資格を認めていないの。ただ従兄の父親だけは――つまりあたしの叔父《おじ》だわね。叔父だけは嫁《よめ》に貰いたいのよ。それも表向きには云われないものだから、内々《ないない》あたしへ当って見るんでしょう。そのまた言い草が好《い》いじゃないの?『お前さんにでも来て貰えりゃ、あいつの極道《ごくどう》もやみそうだから』ですって。親ってみんなそう云うものか知ら? それにしてもずいぶん利己主義者だわね。つまり叔父の考えにすりゃ、あたしは主婦と云うよりも、従兄の遊蕩をやめさせる道具に使われるだけなんですもの。ほんとうに惘《あき》れ返ってものも云われないわ。
「こう云う結婚難の起るにつけても、しみじみあたしの考えることは日本の小説家の無力さ加減だわね。教育を受けた、向上した、そのために教養の乏しい男を夫に選ぶことは困難になった、――こう云う結婚難に遇《あ》っているのはきっとあたし一人ぎりじゃないわ。日本中どこにもいるはずだわ。けれども日本の小説家は誰もこう云う結婚難に悩んでいる女性を書かないじゃないの? ましてこう云う結婚難を解決する道を教えないじゃないの? そりゃ結婚したくなければ、しないのに越したことはない訣《わけ》だわね。それでも結婚しないとすれば、たといこの市《まち》にいるように莫迦莫迦《ばかばか》しい非難は浴びないにしろ、自活だけは必要になって来るでしょう。ところがあたしたちの受けているのは自活に縁《えん》のない教育じゃないの? あたしたちの習った外国語じゃ家庭教師も勤《つと》まらないし、あたしたちの習った編物《あみもの》じゃ下宿代も満足に払われはしないわ。するとやっぱり軽蔑《けいべつ》する男と結婚するほかはないことになるわね。あたしはこれはありふれたようでも、ずいぶん大きい悲劇だと思うの。(実際またありふれているとすれば、それだけになおさら恐ろしいじゃないの?)名前は結婚って云うけれども、ほんとうは売笑婦《ばいしょうふ》に身を売るのと少しも変ってはいないと思うの。
「けれどもあなたはあたしと違って、立派に自活して行《ゆ》かれるんでしょう。そのくらい羨《うらや》ましいことはありはしないわ。いいえ、実はあなたどころじゃないのよ。きのう母と買いものに行ったら、あたしよりも若い女が一人《ひとり》、邦文タイプライタアを叩《たた》いていたの。あの人さえあたしに比《くら》べれば、どのくらい仕合せだろうと思ったりしたわ。そうそう、あなたは何よりもセンティメンタリズムが嫌いだったわね。じゃもう詠歎《えい
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング