文部省の仮名遣改定案について
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)孝雄《よしお》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)山田|孝雄《よしお》氏

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ゐ[#「ゐ」に白丸傍点]
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 我文部省の仮名遣改定案は既に山田|孝雄《よしお》氏の痛撃を加へたる所なり。(雑誌「明星」二月号参照)山田氏の痛撃たる、尋常一様の痛撃にあらず。その当に破るべきを破つて寸毫の遺憾を止めざるは殆どサムソンの指動いてペリシデのマツチ箱のつぶるるに似たり。この山田氏の痛撃の後に仮名遣改定案を罵らむと欲す、誰か又蒸気ポンプの至れる後、龍吐水を持ち出すの歎なきを得むや。然れども思へ、火を滅せむには一杓の水も用なしと做《な》さず。況や一条龍吐水の水をや。是僕の創見なきを羞ぢず、消防に加はらむとする所以なり。
 我文部省の仮名遣改定案は漫然と「改定」を称すれども、何に依つて改定せるかを明らかにせず。勿論政府の命ずる所の何に依るかを明らかにせざるは必しも咎むべからざるに似たり。僕は銀座街頭を行くに常に左側を通行すれども、何に依つて右側を歩まず左側を歩むかを明らかにせず。然れども左側を歩む所以は便宜に出づることを信ずればなり。
 試みに僕等に命ずるに日比谷公園の躑躅を伐り、家鴨を殺すことを以てせよ。誰かその何の故に伐り何の故に殺すかを問はざらむや。即ち政府の命ずる所の何に依るかを明らかにせざるは必しも咎むべからずと雖も、まづその便宜に出づる所以を僕等「大みたから」に信ぜしめざる可らず。仮名遣改定案を制定したる国語調査会の委員諸公は悉聡明練達の士なり。何ぞこの明白なる理の当然を知らざることあらむや。然らば諸公は仮名遣改定案の便宜たるを信ずるのみならず、僕等も亦便宜たることを信ずること、諸公の如くなるを信ずるなるべし。諸公の便宜たるを信ずるは諸公の随意に任ずるも可なり。然れども僕等も諸公の如く便宜たることを信ずべしとするは――少くとも諸公の楽天主義も聊か過ぎたりと言はざるべからず。
 僕は勿論仮名遣改定案の便宜たることを信ずる能はず。仮名遣改定案は――たとへば「ゐ[#「ゐ」に白丸傍点]」「ゑ[#「ゑ」に白丸傍点]」を廃するは繁を省ける所以なるべし。然れども繁を省けるが故に直ちに便宜なりと考
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