ふるは最も危険なる思想なり。天下何ものか暴力よりも容易に繁を省くものあらむや。若し僕にして最も手軽に仮名遣改定案を葬らむとせむ乎、僕亦区々たる筆硯の間に委員諸公を責むるに先だち、直ちに諸公を暗殺すべし。僕の諸公を暗殺せず、敢てペンを駆る所以は――原稿料の為と言ふこと勿れ。――一に諸公を暗殺するの簡は即ち簡なりと雖も、便宜ならざるを信ずればなり。「ゐ[#「ゐ」に白丸傍点]」「ゑ[#「ゑ」に白丸傍点]」を廃して「い[#「い」に白丸傍点]」「え[#「え」に白丸傍点]」のみを存す、誰か簡なるを認めざらむや。然れども敷島のやまと言葉の乱れむとする危険を顧みざるは断じて便宜と言ふべからず。国語調査会の委員諸公は悉聡明練達の士なり。豈《あに》陽に忠孝を説き、陰に爆弾を懐にする超偽善的恐怖主義者ならむや。しかも諸公の為す所を見れば、諸公の簡を尊ぶこと、土蛮の生殖器を尊ぶが如くなるは殆ど恐怖主義者と同一なり。雑誌「明星」同人は諸公を以て便宜主義者と做す。(雑誌「明星」二月号所載)便宜主義者乎。便宜主義者乎。僕は寧ろ諸公を目するに不便宜主義者を以てするものなり。
我文部省の仮名遣改定案の便宜に出づることを認め難きは上に弁じたる所なり。卒然としてこの改定案を示し、恬然として責任を果したりと做す、誰か我謹厳なる委員諸公の無邪気に驚かざらむや。然れども簡を尊ぶは滔々たる時代の風潮なり。甘粕大尉の大杉栄を殺し、中岡|艮一《こんいち》の原敬を刺せるも皆この時代の風潮に従へるものと言はざるべからず。然らば我委員諸公の簡を愛すること、醍醐の如くなるも或は驚くに足らざるべし。宜《むべ》なるかな、南園白梅の花、寿陽公主の面上に落ちて、梅花粧の天下を風靡したるや。然れども仮名遣改定案は単に我が日本語の堕落を顧みざるのみならず、又実に天下をして理性の尊厳を失はしむるものなり。たとへば「ぢ[#「ぢ」に白丸傍点]」「づ[#「づ」に白丸傍点]」を廃するを見よ。「ぢ[#「ぢ」に白丸傍点]」「づ[#「づ」に白丸傍点]」にして絶対に廃せられむ乎。「常々小面憎い葉茶屋の亭主」は「つねずね[#「ずね」に白丸傍点]こずら[#「ずら」に白丸傍点]憎い葉じや[#「じや」に白丸傍点]屋の亭主」と書かざるべからず。「つね」の「づね[#「づね」に白丸傍点]」に変ずるは理解すべし。「ずね[#「ずね」に白丸傍点]」に変ずるは理解すべから
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