葉なんです。」
中尉の出した紙切れには何か横文字の言葉が一つ、青鉛筆の痕《あと》を残している。Masochism ――保吉は思わず紙切れから、いつも頬《ほお》に赤みのさした中尉の童顔へ目を移した。
「これですか? このマソヒズムと云う……」
「ええ、どうも普通の英和辞書には出て居らんように思いますが。」
保吉は浮かない顔をしたまま、マソヒズムの意味を説明した。
「いやあ、そう云うことですか!」
田中中尉は不相変《あいかわらず》晴ればれした微笑《びしょう》を浮かべている。こう云う自足《じそく》した微笑くらい、苛立《いらだ》たしい気もちを煽《あお》るものはない。殊に現在の保吉は実際この幸福な中尉の顔へクラフト・エビングの全|語彙《ごい》を叩きつけてやりたい誘惑さえ感じた。
「この言葉の起源になった、――ええと、マゾフと云いましたな。その人の小説は巧《うま》いんですか?」
「まあ、ことごとく愚作ですね。」
「しかしマゾフと云う人はとにかく興味のある人格なんですな?」
「マゾフですか? マゾフと云うやつは莫迦《ばか》ですよ。何しろ政府は国防計画よりも私娼保護《ししょうほご》に金を出せと熱
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