かっている。彼はその月を眺めているうちに小便をしたい気がした。人通りは幸い一人もない。往来の左右は不相変《あいかわらず》ひっそりした篠垣の一列である。彼は右側の垣の下へ長ながと寂しい小便をした。
 するとまだ小便をしているうちに、保吉の目の前の篠垣はぎいと後ろへ引きあげられた。垣だとばかり思っていたものは垣のように出来た木戸《きど》だったのであろう。そのまた木戸から出て来たのを見れば、口髭《くちひげ》を蓄《たくわ》えた男である。保吉は途方《とほう》に暮れたから、小便だけはしつづけたまま、出来るだけゆっくり横向きになった。
「困りますなあ。」
 男はぼんやりこう云った。何だか当惑そのものの人間になったような声をしている。保吉はこの声を耳にした時、急に小便も見えないほど日の暮れているのを発見した。
[#地から1字上げ](大正十三年三月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和4
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