りこの写生文の建築師のうちに数へなければならぬ。(勿論「俳諧師」の作家高浜氏の小説の上に残した足跡は別に勘定するのである。)けれども僕等の散文が詩人たちの恩を蒙《かうむ》つたのは更に近い時代にもない訣ではない。ではそれは何かと言へば、北原白秋氏の散文である。僕等の散文に近代的な色彩や匂を与へたものは詩集「思ひ出」の序文だつた。かう云ふ点では北原氏の外に木下|杢太郎《もくたらう》氏の散文を数へても善い。
現世の人々は詩人たちを何か日本のパルナスの外に立つてゐるやうに思つてゐる。が、何も小説や戯曲はあらゆる文芸上の形式と没交渉に存在してゐる訣ではない。詩人たちは彼等の仕事の外にもやはり又僕等の仕事にいつも影響を与へてゐる。それは別に上に書いた事実の証明するばかりではない。僕等と同時代の作家たちの中に詩人佐藤春夫、詩人|室生犀星《むろふさいせい》、詩人久米正雄等の諸氏を数へることは明らかに僕の説を裏書きするものである。いや、それ等の作家ばかりではない。最も小説家らしい里見|※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1−84−22]《とん》氏さへ幾篇かの詩を残してゐる筈である。
詩人たちは或は彼等の孤立に多少の歎《たん》を持つてゐるかも知れない。しかしそれは僕に言はせれば、寧ろ「名誉の孤立」である。
七 詩人たちの散文
尤も詩人たちの散文は人力にも限りのある以上、大抵彼等の詩と同程度に完成してゐないのを常としてゐる。芭蕉《ばせを》の「奥の細道」もやはり又この例に洩れない。殊に冒頭の一節はあの全篇に漲《みなぎ》つた写生的興味を破つてゐる。第一「月日は百代の過客《くわかく》にして、ゆきかふ年も又旅人なり」と云ふ第一行を見ても、軽みを帯びた後半は前半の重みを受けとめてゐない。(散文にも野心のあつた芭蕉は同時代の西鶴の文章を「浅ましくもなり下《さが》れる姿」と評した。これは枯淡《こたん》を愛した芭蕉には少しも無理のない言葉である。)しかし彼の散文もやはり作家たちの散文に影響を与へたことは確かである。たとひそれは「俳文」と呼ばれる彼以後の散文を通過して来たにもしろ。
八 詩歌
日本の詩人たちは現世の人々にパルナスの外にゐると思はれてゐる。その理由の一半は現世の人々の鑑賞眼が詩歌に及ばないことも数へられるであらう。しかし又一つには詩歌は畢《つひ》に散文のやうに僕等の全生活感情を盛り難いことにもよる訣《わけ》である。(詩は――古い語彙《ごゐ》を用ひるとすれば、新体詩は短歌や発句《ほつく》よりもかう云ふ点では自由である。プロレツトカルトの詩はあつても、プロレツトカルトの発句はない。)しかし詩人たちは、――たとへば現世の歌人たちもかう云ふ試みをしてゐないことはない。その最も著しい例は「悲しき玩具」の歌人石川|啄木《たくぼく》が僕等に残した仕事である。これは恐らくは今日では言ひ古されてゐることであらう。しかし「新詩社」は啄木の外にもこの「オデイツソイスの弓」を引いたもう一人の歌人を生み出してゐる。「酒《さか》ほがひ」の歌人吉井勇氏は正にかう云ふ仕事をした。「酒ほがひ」の歌にうたはれたものはいづれも小説の匂を帯びてゐる。(或は心理描写の影を帯びてゐる。)大川端《おほかはばた》の秋の夕暮に浪費を思つた吉井勇氏はかう云ふ点では石川啄木と、――貧苦と闘つた石川啄木と好個《かうこ》の対照を作るものであらう。(なほ又|次手《ついで》に一言すれば、「アララギ」の父正岡子規が「明星」の子北原白秋と僕等の散文を作り上げる上に力を合せたのも好対照である。)が、これは必しも「新詩社」にばかりあつたことではない。斎藤茂吉氏は「赤光《しやくくわう》」の中に「死に給ふ母」、「おひろ」等の連作を発表した。のみならず又十何年か前に石川啄木の残して行つた仕事を――或は所謂《いはゆる》「生活派」の歌を今もなほ着々と完成してゐる。元来斎藤茂吉氏の仕事ほど、多岐多端に渡つてゐるものはない。同氏の歌集は一首ごとに倭琴《わごん》やセロや三味線や工場の汽笛を鳴り渡らせてゐる。(僕の言ふのは「一首ごと」である。「一首の中に」と言ふのではない。)若《も》しこのまま書きつづけるとすれば、僕は或はいつの間にか斎藤茂吉論に移つてしまふであらう。しかしそれは便宜上、歯止めをかけて置かなければならぬ。僕はまだこの次手に書きたいことを持ち合せてゐる。が、兎に角斎藤茂吉氏ほど、仕事の上に慾の多い歌人は前人の中にも少かつたであらう。
九 両大家の作品
勿論あらゆる作品はその作家の主観を離れることは出来ない。しかし仮に客観と云ふ便宜上の貼り札を用ひるとすれば、自然主義の作家たちの中でも最も客観的な作家は徳田秋声氏である。正宗白鳥氏はこの点では対蹠点《たいせきてん》に立つてゐると言つても善い。正宗白鳥氏の厭世主義は武者小路実篤氏の楽天主義と好箇の対照を作つてゐる。のみならず殆ど道徳的である。徳田氏の世界も暗いものかも知れない。しかしそれは小宇宙である。久米正雄氏の「徳田水《とくだすゐ》」と呼んだ東洋詩的情緒のある小宇宙である。そこにはたとひ娑婆苦《しやばく》はあつても、地獄の業火《ごふくわ》は燃えてゐない。けれども正宗氏はこの地面の下に必ず地獄を覗《のぞ》かせてゐる。僕は確か一昨年の夏、正宗氏の作品を集めた本を手当り次第に読破して行つた。人生の表裏を知つてゐることは正宗氏も徳田氏に劣らないかも知れない。しかし僕の受けた感銘は――少くとも僕の受けた感銘中、最も僕に迫つたものは中世紀から僕等を動かしてゐた宗教的情緒に近いものである。
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我を過ぎて汝は歎きの市《まち》に入り
我を過ぎて汝は永遠の苦しみに入る。……
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(追記。この後二三日を経て正宗氏の「ダンテに就いて」を読んだ。感慨少からず。)
十 厭世主義
正宗白鳥氏の教へる所によれば、人生はいつも暗澹《あんたん》としてゐる。正宗氏はこの事実を教へる為に種々雑多の「話」を作つた。(尤も同氏の作品中には「話」らしい話のない小説も少くない。)しかもその「話」を運ぶ為にも種々雑多のテクニイクを用ひてゐる。才人の名はかう云ふ点でも当然正宗氏の上に与へらるべきであらう。しかし僕の言ひたいのは同氏の厭世主義的人生観である。
僕も亦正宗氏のやうに如何なる社会組織のもとにあつても、我々人間の苦しみは救ひ難いものと信じてゐる。あの古代のパンの神に似たアナトオル・フランスのユウトピア(「白い石の上で」)さへ仏陀《ぶつだ》の夢みた寂光土《じやくくわうど》ではない。生老《しやうらう》病死は哀別離苦と共に必ず僕等を苦しめるであらう。僕は確か去年の秋、ダスタエフスキイの子供か孫かの餓死した電報を読んだ時、特にかう思はずにはゐられなかつた。これは勿論コムミユニスト治下のロシアにあつた話である。しかしアナアキストの世界となつても、畢竟《ひつきやう》我々人間は我々人間であることにより、到底幸福に終始することは出来ない。
けれども「金《かね》が仇《かたき》」とは封建時代以来の名言である。金の為に起る悲劇や喜劇は社会組織の変化と共に必ず多少は減ずるであらう。いや、僕等の精神的生活も幾分か変化を受ける筈である。若しかう云ふ点を力説すれば、我々人間の将来は或は明るいと言はれるであらう。しかし又金の為に起らずにゐる[#「起らずにゐる」に傍点]悲劇や喜劇もない訣ではない。のみならず金は必しも我々人間を飜弄《ほんろう》する唯一の力ではないのである。
正宗白鳥氏がプロレタリアの作家たちと立ち場を異にするのは当然である。僕も亦、――僕は或は便宜上のコムミユニストか何かに変るかも知れない。が、本質的にはどこまで行つても、畢竟ジヤアナリスト兼詩人である。文芸上の作品もいつかは滅びるのに違ひない。現に僕の耳学問によれば、フランス語のリエゾンさへ失はれつつある以上、ボオドレエルの詩の響もおのづから明日《みやうにち》異るであらう。(尤もそんなことはどうなつても我々日本人には差支へない。)しかし一行の詩の生命は僕等の生命よりも長いのである。僕は今日も亦明日のやうに「怠惰なる日の怠惰なる詩人」、――一人の夢想家であることを恥としない。
十一 半ば忘れられた作家たち
僕等は少くとも銭のやうに必ず両面を具へてゐる。両面以上を具へてゐることも勿論決して稀ではない。紅毛人の作り出した「芸術家として又人として」はこの両面を示すものである。「人として」失敗したと共に「芸術家として」成功したものは盗人兼詩人だつたフランソア・ヴイヨンにまさるものはない。「ハムレツト」の悲劇もゲエテによれば、思想家たるべきハムレツトが父の仇《かたき》を打たなければならぬ王子だつた悲劇である。これも亦或は両面の剋《こく》し合つた悲劇と言はれるであらう。僕等の日本は歴史上にもかう云ふ人物を持ち合せてゐる。征夷《せいい》大将軍源|実朝《さねとも》は政治家としては失敗した。しかし「金槐集《きんくわいしふ》」の歌人源実朝は芸術家としては立派に成功してゐる。が、「人として」――或は何としてでも失敗したにしろ、芸術家としても成功しないことは更に悲劇的であると言はなければならぬ。
しかし芸術家として成功したかどうかは容易に決定出来るものではない。現にラムボオを嗤《わら》つたフランスは今日ではラムボオに敬礼し出した。が、たとひ誤植だらけにもしろ、三冊(?)の著書のあつたことはラムボオの為には仕合せである。若し著書もなかつたとしたならば、……
僕は僕の先輩や知人に二三の好短篇を書きながら、しかもいつか忘れられた何人かの人々を数へてゐる。彼等は今日の作家たちよりも或は力を欠いてゐたかも知れない。けれども偶然と云ふものはやはりそこにもあつた訣である。(若し全然かう云ふ分子を認めない作家があるとすれば、それは例外とする外はない。)それ等の作品を集めることは或は不可能に近いかも知れない。しかし若し出来るとすれば、彼等の為は暫く問はず、後人《こうじん》の為にも役立つことであらう。
「生まるる時の早かりしか、或は又遅かりしか」は南蛮の詩人の歎《なげき》ばかりではない。僕は福永|挽歌《ばんか》、青木健作、江南文三《えなみぶんざ》等の諸氏にもかう云ふ歎を感じてゐる。僕はいつか横文字の雑誌に「半ば忘れられた作家たち」と云ふシリイズの広告を発見した。僕も亦或はかう云ふシリイズに名を連ねる作家たちの一人であらう。かう云ふのは格別謙遜したのではない。イギリスのロマン主義時代の流行児だつた「僧」の作家ルイズさへやはりこのシリイズの中の一人である。しかし半ば忘れられた作家たちは必しも過去ばかりにある訣《わけ》ではない。のみならず彼等の作品は一つの作品として見る時には現世の諸雑誌に載る作品よりも劣つてゐるとは言はれないのである。
十二 詩的精神
僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論《ばくろん》を述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。すると谷崎氏は「さう云ふものならば何にでもあるぢやないか?」と言つた。僕はその時も述べた通り、何にでもあることは否定しない。「マダム・ボヴアリイ」も「ハムレツト」も「神曲」も「ガリヴアアの旅行記」も悉く詩的精神の産物である。どう云ふ思想も文芸上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の浄火《じやうくわ》を通つて来なければならぬ。僕の言ふのはその浄火を如何に燃え立たせるかと云ふことである。それは或は半ば以上、天賦《てんぷ》の才能によるものかも知れない。いや、精進の力などは存外《ぞんぐわい》効のないものであらう。しかしその浄火の熱の高低は直ちに或作品の価値の高低を定めるのである。
世界は不朽《ふきう》の傑作にうんざりするほど充満してゐる。が、或作家の死んだ後、三十年の月日を経ても、なほ僕等の読むに足る十篇の短篇を残したものは大家と呼んで
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