も差支《さしつかへ》ない。たとひ五篇を残したとしても、名家の列には入るであらう。最後に三篇を残したとすれば、それでも兎《と》に角《かく》一作家である。この一作家になることさへ容易に出来るものではない。僕はこれも亦横文字の雑誌に「短篇などは二三日のうちに書いてしまふものである」と云ふウエルズの言葉を発見した。二三日は暫く問はず、締め切り日を前に控へた以上、誰でも一日のうちに書かないものはない。しかしいつも二三日のうちに書いてしまふと断言するのはウエルズのウエルズたる所以《ゆゑん》である。従つて彼は碌《ろく》な短篇を書かない。

     十三 森先生

 僕はこの頃「鴎外全集」第六巻を一読し、不思議に思はずにはゐられなかつた。先生の学は古今を貫き、識は東西を圧してゐるのは今更のやうに言はずとも善い。のみならず先生の小説や戯曲は大抵は渾然《こんぜん》と出来上つてゐる。(所謂ネオ・ロマン主義は日本にも幾多の作品を生んだ。が、先生の戯曲「生田川《いくたがは》」ほど完成したものは少かつたであらう。)しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓目《ひいきめ》に見るとしても、畢《つひ》に作家の域にはひつてゐない。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋両浦嶼《たまくしげふたりうらしま》」を読んでも、如何に先生が日本語の響を知つてゐたかが窺《うかが》はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴《はうふつ》出来ない訣ではない。同時に又体裁を成してゐることはいづれも整然と出来上つてゐる。この点では殆ど先生としては人工を尽したと言つても善いかも知れない。
 けれども先生の短歌や発句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ掴《つか》めば、或程度[#「或程度」に傍点]の巧拙《かうせつ》などは余り気がかりになるものではない。が、先生の短歌や発句は巧《かう》は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて来ない。これは先生には短歌や発句は余戯に外ならなかつた為であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戯曲や小説にもやはり鋒芒《ほうばう》を露《あら》はしてゐない。(かう云ふのは先生の戯曲や小説を必しも無価値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の余戯だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが仏尊し」の譏《そし》りを受けることを顧みないとすれば。)
 僕はかう云ふことを考へた揚句《あげく》、畢竟《ひつきやう》森先生は僕等のやうに神経質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢《つひ》に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽斎《しぶえちうさい》」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聡明の資と共に僕を動かさずには措《お》かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書斎に和服を着た[#「和服を着た」に傍点]先生と話してゐた。方丈《はうぢやう》の室に近い書斎の隅には新らしい薄縁《うすべ》りが一枚あり、その上には虫干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。――「この間柴野|栗山《りつざん》(?)の手紙を集めて本に出した人が来たから、僕はあの本はよく出来てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎《あいにく》月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出来ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北条|霞亭《かてい》の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覚えてゐる。かう言ふ先生に瞠目《だうもく》するものは必しも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白状すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を残したいと思つてゐる一人である。

     十四 白柳秀湖氏

 僕は又この頃|白柳秀湖《しらやなぎしうこ》氏の「声なきに聴く」と云ふ文集を読み、「僕の美学」、「羞恥心《しうちしん》に関する考察」、「動物の発性期と食物との関係」等の小論文に少からず興味を感じた。「僕の美学」は題の示すやうに正に白柳氏の美学に当り、「羞恥心に関する考察」は白柳氏の倫理学に当るものである。今後者は暫く問はず、前者をちよつと紹介すれば、美は僕等の生活から何の関係もなしに生まれたものではない。僕等の祖先は焚火を愛し、林間に流れる水を愛し、肉を盛る土器を愛し、敵を打ち倒す棒を愛した。美はこれ等の生活的必要品(?)からおのづから生まれて来たのである。……
 かう云ふ小論文は少くとも僕には現世に多いコントよりも遙に尊敬に価するものである。(白柳氏はこの小論文の末にこれは「文壇の一隅に唯物美学の呼声、若しくはそれに関する飜訳の現れる絶対以前」に書いたと註してゐる。)僕は美学などは全然知らない。況《いはん》や唯物美学などと云ふものには更に縁のない衆生《しゆじやう》である。しかし白柳氏の美の発生論は僕にも僕の美学を作る機会を与へた。白柳氏は造形美術以外の美の発生に言及してゐない。僕はもう十数年前、或山中の宿に鹿の声を聞き、何かしみじみと人恋しさを感じた。あらゆる抒情詩はこの鹿の声に、――雌を呼ぶ雄の声に発したのであらう。しかしこの唯物美学は俳人は勿論、遠い昔の歌人さへ知つてゐたかも知れない。唯叙事詩に至つては確かに太古の民のゴシツプに起源を発してゐたのであらう。「イリアツド」は神々のゴシツプである。その又ゴシツプは僕等には野蛮な荘厳《さうごん》に充《み》ち満ちた美を感じさせるのに違ひない。しかしそれは「僕等には」である。太古の民は「イリアツド」に彼等の歓びや悲しみや苦しみを感ぜずにはゐなかつたであらう。のみならずそこに彼等の心の燃え上るのを感ぜずにはゐなかつたであらう。……
 白柳秀湖氏は美の中に僕等の祖先の生活を見てゐる。が、僕等は僕等ばかりではない。アフリカの沙漠に都会の出来る頃には僕等の子孫の祖先になるのである。従つて僕等の心もちは丁度地下の泉のやうに僕等の子孫にも伝はるであらう。僕は白柳秀湖氏のやうに焚き火に親しみを感じるものである。同時に又その親しみに太古の民を思ふものである。(僕は「槍ヶ岳紀行」の中にちよつとこのことを書いたつもりである。)しかし「猿に近い吾々の祖先」は彼等の焚き火を燃やす為にどの位苦心をしたことであらう。焚き火を燃やすことを発明したのは勿論天才だつたのに違ひない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたものはやはり何人かの天才たちである。僕はこの苦心を思ふ時、不幸にも「今の芸術といふものなど、無くなつてしまつてもよい」とは考へない。

     十五 「文芸評論」

 批評も亦文芸上の一形式である。僕等の誉《ほ》めたり貶《けな》したりするのも畢竟《ひつきやう》は自己を表現する為であらう。幕の上に映つたアメリカの役者に、――しかも死んでしまつたヴアレンテイノに拍手を送つて吝《をし》まないのは相手を歓ばせる為でも何でもない。唯好意を、――惹《ひ》いては自己を表現する為にするのである。若し自己を表現する為とすれば、……
 小説や戯曲も紅毛人の作品に或は遙かに及ばないかも知れない。が、批評も亦紅毛人の作品に遜色《そんしよく》のあるのは確かである。僕はかう云ふ荒蕪《くわうぶ》の中に唯正宗白鳥氏の「文芸評論」を愛読した。批評家正宗白鳥氏の態度は紅毛人の言葉を借りれば、徹頭徹尾ラコニツクである。のみならず「文芸評論」は必ずしも文芸評論ではない。時には文芸の中の人生評論である。しかも僕は巻煙草を片手に「文芸評論」を愛読した。時々石のごろごろした一本道を思ひ出しながら、その又一本道の日の光に残酷な歓びを感じながら。

     十六 文学的未開地

 イギリスは久しく閑却してゐた十八世紀の文芸に注目してゐる。それは一つには大戦の後には誰も陽気なものを求めてゐるからであらう。(僕は私《ひそ》かに世界中同じではないかと思つてゐる。同時に又大戦の為に打撃を受けない日本さへいつかこの流行に感染してゐるのも不思議なものだと思つてゐる。)しかし又一つには閑却してゐた為に文学者たちの研究に材料を与へ易い為もある訣である。雀は米のない流しもとへは来ない。文学者たちも同じことであらう。従つて等閑に附せられることはそれ自身発見されることになる訣である。
 これは日本でも同じことである。俳諧寺|一茶《いつさ》は暫く問はず、天明以後の俳人たちの仕事は殆ど誰にも顧みられてゐない。僕はかう云ふ俳人たちの仕事も次第に顕《あらは》れて来ることと思つてゐる。しかも「月並み」の一言では到底片づけられない一面も次第に顕れて来ることと思つてゐる。
 等閑に附せられると云ふことも必しも悪いことばかりではない。

     十七 夏目先生

 僕はいつか夏目先生が風流漱石山人になつてゐるのに驚嘆した。僕の知つてゐた先生は才気|煥発《くわんぱつ》する老人である。のみならず機嫌の悪い時には先輩の諸氏は暫く問はず、後進の僕などは往生だつた。成程天才と云ふものはかう云ふものかと思つたこともないではない。何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顔をこちらへ向けずに僕に「葉巻をとつてくれ給へ」と言つた。しかし葉巻がどこにあるかは生憎《あいにく》僕には見当もつかない。僕はやむを得ず「どこにありますか?」と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)顋《あご》を右へ振つた。僕は怯《お》づ怯《お》づ右を眺め、やつと客間の隅の机の上に葉巻の箱を発見した。
「それから」「門」「行人《かうじん》」「道草」等はいづれもかう云ふ先生の情熱の生んだ作品である。先生は枯淡《こたん》に住したかつたかも知れない。実際又多少は住してゐたであらう。が、僕が知つてゐる晩年さへ、決して文人などと云ふものではなかつた。まして「明暗」以前にはもつと猛烈だつたのに違ひない。僕は先生のことを考へる度に老辣無双《らうらつぶさう》の感を新たにしてゐる。が、一度身の上の相談を持ちこんだ時、先生は胃の具合も善かつたと見え、かう僕に話しかけた。――「何も君に忠告するんぢやないよ。唯僕が君の位置に立つてゐるとすればだね。……」僕は実はこの時には先生に顋を振られた時よりも遙かに参らずにはゐられなかつた。

     十八 メリメエの書簡集

 メリメエはフロオベエルの「マダム・ボヴアリイ」を読んだ時、「超凡の才能を浪費してゐる」と言つた。「マダム・ボヴアリイ」はロマン主義者のメリメエには実際かう感ぜられたかも知れない。しかしメリメエの書簡集(誰かわからない女に宛てた恋愛書簡集)はいろいろの話を含んでゐる。たとへばパリから書いた二番目の書簡に、――
 ルウ・サン・オノレエに貧しい女が一人住んでゐた。彼女は見すぼらしい屋根裏の部屋を殆ど一度も離れなかつた。それから又十二になる娘を一人持つてゐた。その少女は午後からオペラへ勤め、大抵真夜中に帰つて来るのだつた。或夜のこと、娘は門番の部屋へ下りて来て「蝋燭《らふそく》に火をつけて貸して下さい」と言つた。門番の女房は娘のあとから屋根裏の部屋へ昇つて行つた。するとあの貧しい女は死骸になつて横たはつてゐた。のみならず娘は古トランクから出した一束の手紙を燃やしてゐた。「お母さんは今夜死にました。これはお母さんが死ぬ前に読まずに焼けと言つてゐた手紙です」――娘は門番の女房にかう言つた。娘は父の名も知らなければ母の名も知らなかつた。しかも生活の途《みち》と言つては唯せつせとオペラへ勤め、猿になつたり、悪魔になつたり、ほんの端役《フイギユラント》を勤めるだけだつた。母親は最後の教訓に「いつまでも端役《はやく》でゐるやうに、又善良でゐるやうに」と言つた。娘は今でもこの教訓通り、善良な端役《フイギユラント》に終始してゐる。
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