かう云ふ名称を生んだ或|雰囲気《ふんゐき》の存在するのは世界中に日本だけであらう。)僕の作品を作つてゐるのは僕自身の人格を完成する為に作つてゐるのではない。況《いはん》や現世の社会組織を一新する為に作つてゐるのではない。唯僕の中《うち》の詩人を完成する為に作つてゐるのである。或は詩人兼ジヤアナリストを完成する為に作つてゐるのである。従つて「野性の呼び声」も僕には等閑に附することは出来ない。
 或友人は森先生の詩歌に不満を洩らした僕の文章を読み、僕は感情的に森先生に刻薄《こくはく》であると云ふ非難を下した。僕は少くとも意識的には森先生に敵意などは持つてゐない。いや、寧《むし》ろ森先生に心服してゐる一人であらう。しかし僕の森先生にも羨望を感じてゐることは確かである。森先生は馬車馬のやうに正面だけ見てゐた作家ではない。しかも意力そのもののやうに一度も左顧右眄《さこうべん》したことはなかつた。「タイイス」の中のパフヌシユは神に祈らずに人の子だつたナザレの基督《キリスト》に祈つてゐる。僕のいつも森先生に近づき難い心もちを持つてゐるのは或はかう云ふパフヌシユに近い歎息を感じてゐる為であらう。

 
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