たこともない訣《わけ》ではなかつた。けれども十年あまりたつて見ると、――立派に完成したルノアルは未だに僕を打たない訣ではない。しかしゴオグの糸杉や太陽はもう一度僕を誘惑するのである。それは橙色の女の誘惑とは或は異つてゐるかも知れない。が、何か切迫したものに言はば芸術的食慾を刺戟されるのは同じことである。何か僕等の魂の底から必死に表現を求めてゐるものに。――
 しかも僕はルノアルに恋々《れんれん》の情を持つてゐるやうに文芸上の作品にも優美なものを愛してゐる。「エピキユウルの園」を歩いたものは容易にその魅力を忘れることは出来ない。殊に僕等都会人はその点では誰よりも弱いのである。プロレタリア文芸の呼び声も勿論僕を動かさないのではない。が、それよりもこの問題は根本的に僕を動かすのである。純一無雑になることは誰にも恐らくは困難であらう。しかし兎に角外見上でも僕の知つてゐる作家たちの中にはこの境涯にゐる人もない訣ではない。僕はいつもかう云ふ人々に多少の羨望《せんばう》を感じてゐる。……
 僕は誰かの貼《は》つた貼り札によれば、所謂「芸術派」の一人になつてゐる。(かう云ふ名称の存在するのは、同時に又
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