ない。僕等の芸術論も亦不滅である。僕等はいつまでも芸術とは? 云々のことを論じてゐるであらう。かう云ふ考へは僕のペンを鈍《にぶ》らせることは確かである。けれども僕の立ち場を明らかにする為に暫く想念《イデエ》のピンポンを弄《もてあそ》ぶとすれば、――
 (1)[#「(1)」は縦中横] 僕は或は谷崎氏の言ふやうに左顧右眄《さこうべん》してゐるかも知れない。いや、恐らくはしてゐるであらう。僕は如何なる悪縁か、驀地《まつしぐら》に突進する勇気を欠いてゐる。しかも稀にこの勇気を得れば、大抵何ごとにも失敗してゐる。「話」らしい話のない小説などと言ひ出したのも或はこの一例かも知れない。しかし僕は谷崎氏も引用したやうに「純粋であるか否かの一点に依つて芸術家[#「芸術家」に傍点]の価値は極《き》まる」と言つたのである。これは勿論「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない云々の言葉とは矛盾しない。僕は小説や戯曲の中にどの位純粋な芸術家の面目のあるかを見ようとするのである。(「話」らしい話を持つてゐない小説――たとへば日本の写生文脈の小説はいづれも純粋な芸術家の面目を示してゐるとは限つてゐない。)
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