、浄瑠璃も韻文《ゐんぶん》である。そこには必ず幾多の詩形が眠つてゐるのに違ひない。唯別行に書いただけでも、謡曲はおのづから今日の詩に近い形を現はすのである。そこには必ず僕等の言葉に必然な韻律のあることであらう。(今日の民謡と称するものは少くとも大部分は詩形上|都々逸《どどいつ》と変りはない。)この眠つてゐる王女を見出すだけでも既に興味の多い仕事である。まして王女を目醒《めざ》ませることをや。
尤も今日の詩は――更に古風な言葉を使へば、新体詩はおのづからかう云ふ道に歩みを運んでゐるかも知れない。又今日の感情を盛るのに昨日の詩形は役立たないであらう。しかし僕は過去の詩形を必ずしも踏襲《たふしふ》しろと言ふのではない。唯それ等の詩形の中に何か命のあるものを感ずるのである。同時に又その何かを今よりも意識的に[#「意識的に」に傍点]掴《つか》めと言ひたいのである。
僕等は皆どう云ふ点でも烈しい過渡時代に生を享《う》けてゐる。従つて矛盾に矛盾を重ねてゐる。光は――少くとも日本では東よりも西から来るかも知れない。が、過去からも来る訣《わけ》である。アポリネエルたちの連作体の詩は元禄時代の連句に近
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