的興味と云ふ意味は事件そのものに対する興味である。僕はけふ往来に立ち、車夫と運転手との喧嘩《けんくわ》を眺めてゐた。のみならず或興味を感じた。この興味は何であらう? 僕はどう考へて見ても、芝居の喧嘩を見る時の興味と違ふとは考へられない。若《も》し違つてゐるとすれば、芝居の喧嘩は僕の上へ危険を齎《もたら》さないにも関《かかは》らず、往来の喧嘩はいつ何時《なんどき》危険を齎らすかもわからないことである。僕はかう云ふ興味を与へる文芸を否定するものではない。しかしかう云ふ興味よりも高い興味のあることを信じてゐる。若しこの興味とは何かと言へば、――僕は特に谷崎潤一郎氏にはかう答へたいと思つてゐる。――「麒麟《きりん》」の冒頭の数頁は直《ただ》ちにこの興味を与へる好個《かうこ》の一例となるであらう。
「話」らしい話のない小説は通俗的興味の乏しいものである。が、最も善い意味では決して通俗的興味に乏しくない。(それは唯「通俗的」と云ふ言葉をどう解釈するかと云ふ問題である。)ルナアルの書いたフイリツプが――詩人の目と心とを透して来たフイリツプが僕等に興味を与へるのは一半はその僕等に近い一凡人である為であ
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