いろいろの話を含んでゐる。たとへばパリから書いた二番目の書簡に、――
 ルウ・サン・オノレエに貧しい女が一人住んでゐた。彼女は見すぼらしい屋根裏の部屋を殆ど一度も離れなかつた。それから又十二になる娘を一人持つてゐた。その少女は午後からオペラへ勤め、大抵真夜中に帰つて来るのだつた。或夜のこと、娘は門番の部屋へ下りて来て「蝋燭《らふそく》に火をつけて貸して下さい」と言つた。門番の女房は娘のあとから屋根裏の部屋へ昇つて行つた。するとあの貧しい女は死骸になつて横たはつてゐた。のみならず娘は古トランクから出した一束の手紙を燃やしてゐた。「お母さんは今夜死にました。これはお母さんが死ぬ前に読まずに焼けと言つてゐた手紙です」――娘は門番の女房にかう言つた。娘は父の名も知らなければ母の名も知らなかつた。しかも生活の途《みち》と言つては唯せつせとオペラへ勤め、猿になつたり、悪魔になつたり、ほんの端役《フイギユラント》を勤めるだけだつた。母親は最後の教訓に「いつまでも端役《はやく》でゐるやうに、又善良でゐるやうに」と言つた。娘は今でもこの教訓通り、善良な端役《フイギユラント》に終始してゐる。
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